高校サッカーを代表する名将、小嶺忠敏氏が7日、死去した。76歳だった。長崎・国見高で指導を受け、Jリーグや日本代表で「アジアの大砲」として活躍。今は師を同じ指導者の道を歩む高木琢也氏(54=J3SC相模原監督)が、偉大な「先生」を偲んだ。

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出会い

島原商の選手の太い脚にあこがれて、先生に教わりたいと思いました。実家も近かったので、たまたまお会いして「先生の指導を受けたい」というと「国見に移るから、来い」と。転勤が決まっていた国見に入学し、2年の時から小嶺先生の指導を受けました。

今考えると、よく誘ってくれたなと。中学からサッカーを初めて、地区大会でも1回勝てるかどうかという成績。素質なんて、分からないですよ。一度もプレーを見ていないんだから。でも、誘ってくれたおかげで今がある。まあ、先生は体が大きい選手が好きでしたからね(笑い)。

国見はもともとサッカーが盛んな地域だし、高校も上手な選手はいました。そんな中で1年やって、2年の春に小嶺先生が赴任してきたんです。すごく厳しいことは知っていたけれど、最初は何も言わない。全然厳しくない。きっと、様子を見ていたのでしょう。それが、インターハイに負けてから180度変わって、急に厳しくなりました。

 

たぬき山

有名ですけど、本当に走りました。「たぬき山」往復は、すぐに始まりましたね。ゴールにまんじゅう屋があって、その往復。こんなところを、よく見つけたなという感じですよ。厳しい練習でやめていく選手もいましたね。

国見はもともとサッカーが盛んで、うまい選手もいたんです。ただ、環境はよくなかった。ピッチ1面とれない狭いグラウンドを野球部と共用。朝練は、体育館で1時間のミニゲームでした。町のグラウンドにも練習に行きました。もちろん、走ってですけど。

先生は1人1人をよく見ていた。練習には必ず来ている。朝練も、遅れてくるなんてことは絶対になかったですね。それで、1人1人に違う指導をする。今でいう「タスク」をそれぞれに与えるんです。それが適格で。うまい選手の真似をして、少しかっこいいことをすると「お前は点とることだけ考えろ」って、怒られたり。選手の能力や性格はもちろん、将来性まで見ている。本当に、指導者としてすごいと思います。

 

改革者

マイクロバスでの遠征を始めたやったことなど、先生はいろいろと新しいことをやってきた。FWをサイドバックに転向させて、攻撃にも参加させた。今でこそ当たり前ですけど、当時はすごいと思いましたね。もちろん、上下動する運動量があったからですけど。

長崎や九州のサッカーを変えたのも先生でしたね。

当時、九州の高校は弱く、みな帝京など他の地域に出てしまっていた。それが、島原商、国見の続いて鹿児島実とか東福岡も強くなっていった。先生の力は大きかったですね。先生がいなければ、V・ファーレン長崎もなかったですから。

 

指導者として

自分が指導するようになって、改めて先生のすごさが分かりました。どんな環境にあっても、工夫して乗り切る。決して、環境のせいにはしない。それは、今も頭にあります。クラブハウスがないとか、練習環境が揃わないとか、そういう環境でも工夫次第で何とかなると思っています。先生を見ていたからですね。

先生はたくさんの選手を育て、指導者を生んできました。大変なことは多かったと思うけれど、最後まで現場にこだわり、指導を続けていた。本当に頭が下がりますね。Jリーグもまた新しいシーズンが始まります。先生に感謝しながら、その教えを胸に頑張っていきたいですね。

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