「意地でも、ぶっち切りで勝ってやる。そうでもしなければ…」。腹の虫が治まらぬとでも、中山竹通(27=ダイエー)は言いたげだった。5日の記者会見では軽く冗談を振りまいたが、本心は違う。ライバル瀬古の欠場への怒りは、前代未聞の超高速独走で勝ちをさらう以外に、いやされない。ソウル五輪代表選考レース「福岡国際マラソン」(7カ国160人)はきょう6日午後0時15分、平和台陸上競技場をスタート。好タイムなら、代表3人のうち二人までが決まる。中山にとっては、怒りのレースでもある。

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午後2時、開会式の行われた西鉄グランドホテル孔雀の間では、中山竹通と谷口浩美(27=旭化成)の二人が、互いのヒジをつつき合ってクスクス笑っていた。「監督紹介だってさ!」。谷口が右ヒジで中山をつつく。「だってどの監督も冷たいからここにいないんじゃないの(笑い)」。中山が答える。部屋には六つのシャンデリアが輝き、ひとつ250ワットのテレビ用ライトが光る。二人はそんな熱気にはお構いなしに、約40分間、こんなたわいもない会話をしては笑い合っていた。

「中山君が冗談で話しかけてくれたんで、いつの間にかリラックスしたみたいです」。谷口は式の終わった午後3時30分、中山についてこう話した。昨年のアジア大会(中山1位、谷口2位)でも、海外初体験の谷口を、中山は思いやりを笑いに変えて気遣った。レースまで24時間を切ったが、中山には、瀬古ら歴代のエースにはない「自然さ」があった。悲壮な孤独感がない。しかしその素直さが、誤解も生んできた。

11月24日、瀬古利彦(31=エスビー食品)の福岡欠場発表を、だれより怒ったのは中山だった。広報を通じて公式には「そうですか? 関係ありません」とコメントしたが、実際には「なんてことしてくれるんだ! 何のために僕はやってきたんだ!」と、周囲に怒りをぶちまけたという。

1985年(昭60)4月、広島W杯で2時間8分15秒の日本記録を自身が出して以来、瀬古はライバル以上の存在になっていた。「瀬古が善玉、中山が悪玉、そんなイメージができているようだ」と陸連関係者が認めるように、優等生的発言で殻の中にこもる瀬古に対し、中山はいつも丸腰だった。福岡は、中山が正々堂々と「かけ値のない自分」をアピールして瀬古と雌雄を決する唯一の舞台だった。それ以上に、自分自身のイメージへの挑戦のチャンスでもあった。「中山君も日常グチをこぼすのですが人を中傷したり、瀬古君をけなすような発言はまずしない。彼が欠場したのを批判したのは、“寂しかった”というのが本音だったと思う」。契約先のアシックスの担当者はこう話す。

日本陸連はこの日、ダイエー・佐藤監督ら6チームの監督を集めて、(1)福岡の結果で最大二人までを代表に内示(2)今回の出場者で不本意な結果を出した者は(瀬古同様)東京、びわ湖に再挑戦を認め、考慮する-と、瀬古欠場の救済法を1時間半にわたって説明した。佐藤氏を含めて全員が猛反発。エスビー食品小林スポーツ局長の謝罪も焼け石に水だった。しかし、決定事項は変わらない。

中山は「こうなったら意地でもぶっち切りで勝ってやる。堂々と優勝したい」と、ふだんは見せないような激しい言葉を周囲にかけている。「ありゃマラソン界一番の頑固者だ」と、82年以来シューズをメンテナンスしている三村仁司氏(38)は苦笑する。「しかし、彼もつらい日々を過ごしてきた。他選手と違い、もらったシューズは使える限り、何レースも大切にはいている。ただの楽天家じゃないですね」。

大決戦まで、あと16時間となった夜8時、選手が宿舎の窓からのぞむ博多湾には、冷たい北風が吹き始め、5メートルを超える大きな波のうねりが押し寄せ始めていた。【増島みどり】

 

◆中山竹通(なかやま・たけゆき)1959年(昭34)12月20日、長野県安曇野郡池田町生まれの27歳。池田工高時代から長距離を始めるも無名の存在。83年7月にダイエーに入社し開花した。マラソン3戦目の84年12月、福岡で2時間10分0秒で優勝、85年4月の広島W杯で2時間8分15秒の日本最高(当時)をマーク(世界歴代3位)して2位。86年ソウルアジア大会金メダル獲得。180センチ、57キロ。神戸の名谷店庶務課勤務。