「同じ時代に生まれた不運」。サッカー担当記者時代、私は何度そう思っただろう。中村俊輔と小野伸二のことである。2人は2月27日に札幌ドームで行われたJ1の札幌-横浜FC戦に出場した。先発した横浜FCの中村は42歳、後半途中出場の小野が41歳。ピッチに同時に立つことはなかったが、プレーする姿を見ながら、20年ほど前の記憶がよみがえった。

2人のJリーグ初対決は98年5月5日、埼玉・駒場スタジアムでの浦和-横浜M戦だった。ともに高校時代から全国区の司令塔で、卓越したパスセンスが注目されていた。19歳の横浜Mの中村と18歳の浦和の小野は、同年のW杯フランス大会の代表候補にも名を連ねていた。代表メンバー発表を目前に控えて、この一戦が日本代表監督の岡田武史氏の最後の視察試合だった。中村は「伸二と一緒にフランスに行きたい」と話していた。

結局、23人の代表メンバーには小野が選ばれ、中村は落選した。W杯初出場の日本は本大会で1次リーグ3戦全敗に終わったが、第3戦のジャマイカ戦に途中出場した小野は、いきなり相手の股を抜くパスを決める。卓越したパスセンスは世界の舞台でも強い光を放った。堂々たるプレーを記者席で見ながら、00年シドニー五輪、02年日韓W杯では彼が日本代表の司令塔になるのだろうと思ったが、その予想は外れた。

日本代表の2列目の中央には中田英寿がどっかと座していた。中村の1歳上。W杯フランス大会後に移籍したセリエAのペルージャでも司令塔で、強いフィジカルとキラーパスを武器に大活躍していた。あの頃、小野と中村が代表に入るには、別の居場所を確保するしかなかった。00年シドニー五輪は左サイドに仕事場を見いだした中村が選出されたが、前年に左ひざ靱帯(じんたい)断裂の重傷を負い、本来の調子を取り戻せなかった小野は落選した。

2人の因縁は02年W杯も続く。日本代表のフィリップ・トルシエ監督は、オランダのフェイエノールトでUEFA杯優勝の実績を残した小野を左サイドに抜てき。今度は中村がはじき出された。中田も含めた3人を同時に起用するには、フィールドが狭すぎると私は思った。02年大会後、中村は、中田と小野の後を追うようにセリエAのレッジーナに移籍。捲土(けんど)重来を期した。

中村と小野の年齢がもう少し離れていれば、中田の時代と重なっていなければ、若い才能はもっと輝くはずだと当時の私は思っていた。しかし、人として最も成長する20歳前後のあの時期に、しのぎを削る相手がいたから、気を緩めることなく技を磨き続け、海外の厳しい環境に耐え抜くことができたのかもしれない。2人は同じ時代に生まれたからこそ、今も第一線のピッチに立っているのではないか。不惑を超えて喜々とプレーする2人の姿を見て、何だかそんな気がしてきた。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

試合前、グータッチを交わす横浜FCのMF中村(左)と札幌MF小野(撮影・佐藤翔太)
試合前、グータッチを交わす横浜FCのMF中村(左)と札幌MF小野(撮影・佐藤翔太)