1932年(昭7)レークプラシッド五輪に、老松一吉、帯谷龍一が日本勢として初出場した。欧米中心に発展したフィギュアスケート。近年の浅田、羽生、宇野ら日本勢が隆盛を誇るまでには、長い苦難の道程があった。日本フィギュアの足跡をたどる歴史を紹介する。第1回は元全日本女王で、浅田真央を指導した佐藤信夫コーチ(75)ら五輪選手を育成した山下艶子さん(89)の激動のフィギュア人生を振り返る。


フィギュアスケートの元全日本女王で、佐藤信夫氏らを指導した山下艶子さん
フィギュアスケートの元全日本女王で、佐藤信夫氏らを指導した山下艶子さん

暗闇の中で目をつむり、体を震わしていた。大平原に「パーン、パーン、パーン」と、乾いた銃声が鳴り響く。1943年(昭18)、日中戦争中の北京郊外。15歳の山下は、トラックの荷台に乗り、大木の下に身を隠す。隣には36年ガルミッシュパルテンキルヘン五輪代表の稲田悦子がいた。恐怖に耐え、抱き合って励まし合う。4歳上の先輩の体温に、生きている実感を得た。

中国各地に派遣された日本兵をねぎらうことが目的の皇軍慰問。芸能人らとともに、当時トップスケーターだった2人が選ばれた。当然、移動中も交戦は続いている。山下は「他に7人の兵隊さんも乗っていた。大きな木の下に隠れてね。外は見られない。本当に怖かった」と、70年以上も前のリアルな戦争体験を振り返った。

在学していた大阪・大手前高等女学校(現大手前高)に、当時の東条英機首相から皇軍慰問を依頼する手紙が送られてきた。学校は名誉なことと、もろ手を挙げて、山下の派遣に同意したという。下関から釜山までは連絡船。そこから鉄道、トラックで約2カ月間、中国各地を回った。演技は凍った池、湖で披露した。ある北京の湖では、氷上内に、見学する多数の軍人があふれた。すると、突然ゴーンと音がし、約1メートルの厚さの氷が割れた。


1936年、大阪・アサヒビル屋上のスケート場で記念写真に納まる山下艶子さん(右から4人目)や稲田悦子さん(同3人目)ら(大阪府スケート連盟提供)
1936年、大阪・アサヒビル屋上のスケート場で記念写真に納まる山下艶子さん(右から4人目)や稲田悦子さん(同3人目)ら(大阪府スケート連盟提供)

まさに命懸けの旅だったが、フィギュアスケートの演技を披露できることはうれしかった。ジャンプは1回転と1回転半の時代。日本軍を慰問する立場だったため、どこでも兵士らに歓迎を受けた。「待遇は良かった。日本にはなかったお菓子、ようかんなどがたくさんあった。汽車の中で雑煮を出されたことも覚えている」。だが、帰国すると、戦況は悪化の一途。競技環境の厳しさは増すばかりだった。

「2日に1度は空襲警報が鳴っていた」。空襲を避けるため、電気を消し、窓に黒いカーテンを張った。当時の練習場は大阪・中ノ島の朝日会館の屋上にあったリンク。「でも練習はしたいから。灯が少しでも漏れないよう、スキなく黒幕を張った」。灯火管制が敷かれる厳戒態勢の中でも練習は続けた。

戦争の影響で、40年札幌五輪は返上。13歳だった40年度全日本選手権3位も、42年以降は中止になった。衣装も、赤、青の派手なものは禁止され、つつましい白に統一。短いスカートも禁じられた。演技を披露する場はもちろん、練習する場所もなくなる。拠点だった大阪・中ノ島のリンクも閉鎖。そして終戦。社会は混乱を極めたが、好きなフィギュアへの情熱は衰えるどころか、増すばかりだった。(敬称略=つづく)(2017年11月15日紙面から。年齢は掲載当時)

◆山下艶子(やました・つやこ)1928年(昭3)3月19日、大阪市生まれ。旧姓は生田。6歳からスケートを始める。13歳だった40年度全日本選手権3位。53、54年度全日本選手権連覇。引退後は佐藤信夫、久美子夫妻ら五輪選手を育成する。長女一美は68年度から全日本選手権4連覇し、72年札幌五輪に出場。2015年まではリンクに入って指導を続けていた。