新時代の幕開けを迎えました。振り返れば、30年前の89年1月7日に昭和天皇が崩御。時代は平成へと進みます。あの昭和最後の日、全国高校ラグビーの決勝が、東大阪市の花園ラグビー場で行われるはずでした。日刊スポーツでは19年元日に、WEB限定で“幻の決勝戦”として語り継がれる大阪工大高(現常翔学園)-茗渓学園(茨城)の舞台裏を、両校の視点から描きました。令和最初の日に、再掲載します。

    ◇    ◇    ◇

茗渓学園の当時の主将、大友孝芳(現青学大ラグビー部監督)は「1試合1試合勝つために必死でした。気付いたら決勝まで行っていた」と振り返る。この年度は4大会連続4度目の出場だった。花園の常連になりつつあったが、まだ8強が最高だった。

決勝の朝、散歩のあとのミーティングで昭和天皇崩御のニュースを知った。試合は中止、表彰式だけとなり、花園へ向かった。表彰式の前に時間を持て余し、体を動かしたくなった選手たち。荷物を送っていたため「ボールがない」と、スパイクのバッグにヘッドキャップを詰めてボール変わりにしてパスをして遊んだという。

一方で大阪工大高は「試合をして自分たちが優勝したかった」とロッカールームで泣いていた。事実をあとで聞いた大友は「こっちはみんな喜んでいたので正直びっくりしました」と話した。

表彰式を終え、急いで新幹線に乗り、JR常磐線で地元に着いたのは午後11時過ぎだった。「ばたばたであまり実感がなかった」(大友)が、なんと当時の岡本校長が駅に迎えに来た。

真っ暗な中、降りた駅で岡本校長1人が出迎え「お疲れさま」と言われたという。大友は「うれしかったですが、その後、終電がなくなって友人の親に送ってもらいました」。学業優先。派手なセレモニーをするような校風ではないため、翌日の始業式でひと言、報告があっただけだったという。

当時、茗渓学園を率いていたのは徳増浩司監督(19年W杯組織委員会)。新聞社に入社後、イギリスに行った際にラグビーを勉強し、帰国後教員免許を取得して監督に就任した熱血教師だ。選手の個性を伸ばし、茗渓の「ランニングラグビー」を築いた。戦術は選手任せ。中高一貫で中1から6年間一緒にやっている仲の良さを考慮し、厳しい指導の中にも「ラグビーを楽しめ!」というスタンスを崩さなかった。選手に考えさせ、自分たちの納得するラグビーを展開し「田舎のひょうきん者」たちを決勝に導いた。

15年4月26日。当時の両チームのメンバーで交流試合を行った。開催されなかった幻の決勝。舞台は花園ラグビー場。2カ月前から月1、2回の練習を行い、試合に臨んだ。当時のメンバーがほとんど集結したが、茗渓学園でSHの深津光生(当時2年)が仕事の関係で唯一参加できなかった。代役を務めたのは、スタメンから外れていた兄の明生(当時3年)だった。

掲示板には30年前のスタメンと同じ名字が並んだ。結果は19-64で敗れたが、現役時代をほうふつとさせるプレーで白熱した試合になった。代償は大きく、骨折が両チームで8人もいたという。それでも終始笑顔でプレーし、試合後は健闘をたたえ合った。

後に日本代表で活躍する元木由記雄ら実力者ぞろいだった優勝候補の大阪工大高との決勝。「実は自分たちは準優勝だという選手もいました」と笑顔で語った大友。実力差はあったかもしれないが、試合はやってみなければ分からない。決着は付かなかったが、両校ともに立派な優勝であったことは間違いない。(敬称略)【取材、構成=松熊洋介】