中日谷繁元信兼任監督(44)が金字塔を打ち立てた。阪神戦に「8番捕手」で先発、通算3018試合出場になり、野村克也の持っていたプロ野球記録3017を更新。島根・江の川(現石見智翠館)から大洋(現DeNA)に88年ドラフト1位で入団、プロ27年目で大記録にたどり着いた。2安打し、二盗を刺すなど健在ぶりを示したが惜敗。悪い流れを止められず5連敗となり、喜べない試合になった。

 5回裏終了時、和田から花束を受け取った。リードされた展開。笑顔はないながらも、場内の大歓声に何度も礼をして応えた。

 「よくここまでやったなと。重みは自分では評価できないけど、3018回もよく試合に出たなという思いです。野球に限らず、どの仕事をしている方でも、仕事である以上、しっかりやらないといけない。それだけです」

 3018回目の“仕事”は苦しかった。先制した直後の3回に6失点。必死に山井に修正を促したが乱調は直らず、敗れた。だが4回以降は無安打無得点に封じた。8回2死一塁では大和の二盗を完璧な送球で防いだ。打っても2安打。「今日のようなプレーはまだできるなと」。兼任監督2年目。出場をコントロールできる立場でも、最も勝てる可能性を求めて客観的に自らをチョイスする。

 「大洋に入っていなかったら、この数字には届いていない」。高卒1年目から80試合に出場。実力は先輩捕手に劣った。それでも古葉竹識監督は周囲の批判や脅迫めいたやっかみを退けて、18歳を使った。

 誰にも負けない肩があった。古葉氏は「あの肩なら投手は一塁走者を気にせず投球に専念できる。試合全体が落ち着く」とこだわった。目立った打力がなくても、肩と捕球技術が一流レベルだから歴代監督はグラウンドに送り出した。

 「捕手は無理、勝てない捕手と言われ、反骨心だけでずっとやってきた」。ずっと自信は持っていた。だが原動力は実は劣等感だったのかもしれない。「谷繁は谷繁。古田も谷繁にはなれないんだから」。横浜時代の監督で捕手の“師匠”と尊敬する大矢明彦氏に言われた言葉を胸に刻む。

 90年代に野村ヤクルトとしのぎを削った。常に比較された。「いつか認めさす、何とか勝ってやろうという思いだった」。古田の配球を勉強したことはない。野村ヤクルトの作戦の裏をかけば心から喜びを覚えた。この戦いが原点だ。

 02年の中日移籍後は常勝軍団の要として、リーグ優勝4度に貢献。大洋、横浜時代の苦しみの中で育まれた感性と技術が、中日のハイレベルな投手陣を相手にして一気に開花した。好きな言葉に「積み重ね」がある。会見で次の目標を聞かれると「明日の試合に勝つことです」。栄光に近道はない-。その思いを27年間持ち続け、頂点に駆け上がった。【柏原誠】

 ◆谷繁元信(たにしげ・もとのぶ)1970年(昭45)12月21日、広島県生まれ。島根・江の川高(現石見智翠館高)から89年にドラフト1位で大洋(現DeNA)に入団。98年には横浜の日本一に貢献しベストナインに。FA移籍で02年から中日でプレー。13年5月に当時、史上最年長で通算2000安打を達成。昨季から選手兼任で監督を務める。176センチ、81キロ。右投げ右打ち。