優勝に貢献できていない思いが強い。11勝4敗で最高勝率のタイトル受賞。それでも北別府にとって91年は苦悩の1年だった。「シーズン途中までほとんど覚えていない。感覚は良くないし、悩むことの方が多かった」。前年に右肘を痛めた影響から「その日、投げてみないと分からない。変化球だけで抑えていたようなもの」。かわすだけの投球に充実感は得られなかった。真っすぐの切れが出てきたのはシーズン後半になってから。ハイライトは西武との日本シリーズだった。

 10月22日の第3戦に先発した。7回まで真っすぐと内角シュートを軸に要所を締めた。「1球1球に高い意識を持って、思い通りに投げられた。8回のあの1球だけ。たっちゃん(達川)のスライダーのサインに何の気なしに投げてしまった」。無死から秋山に投じた初球が甘くなった。打球は中堅フェンスによじ登りグラブを伸ばす前田のはるか上を越えた。唯一の失投で敗戦投手。日本シリーズ10試合目の挑戦も、初白星を得られなかった。

 だが、この試合が晩年にさしかかった右腕を変えた。「あの試合でもう1度、投球の原点である真っすぐが大事で内角を攻める重要性を再認識できた」。翌年の14勝、通算200勝到達につなげた。

 あれから25年。低迷した広島を憂う時期もあった。この先もまだ戦いは続くが、ようやくセ・リーグの頂点に立とうとしている。「強くなったよ。前回優勝のときよりも強いんじゃないか」。後輩たちの成長を素直に認める笑顔はどこか誇らしげだった。(敬称略)【前原淳】

 ◆北別府学(きたべっぷ・まなぶ)1957年(昭32)7月12日、鹿児島県出身。都城農(宮崎)から75年ドラフト1位で広島入り。絶妙な制球力を武器に2年目から1軍に定着し、78~88年の11年連続で2桁勝利。92年に広島初の通算200勝を達成した。通算515試合、213勝141敗5セーブ、防御率3・67。94年に引退後は広島投手コーチを務め、現在はプロ野球評論家。右投げ右打ち。