初場所後は大関琴奨菊を始めとした数多くの相撲関係者が結婚を発表し、また結婚式を挙げた。至福のときを迎え、ときに照れた当人たちの笑顔に、こちらも自然と笑みがこぼれた。その中で、1人の方のスピーチに心を強く打たれた。涙もこぼれそうになった。豊響の師匠、境川親方(元小結両国)が、参加者に向けた感謝の言葉だった。

 新婦里由貴さんの手紙の朗読を聞いて、既に号泣していた親方。豊響から感謝の記念品を受け取ったときは顔を上げられなかった。スピーチは、その直後。正直、大丈夫だろうかと心配だった。それは、いらぬ心配だった。「私が山口県にスカウトに行ったのは、豊響が高校3年生のとき。まだまだとんがって、やんちゃ盛りでした」。親方は、豊響とのスカウト話から口を開いた。

 母豊美さんに女手一つで育てられた豊響。山口・響高時代は全国レベルで活躍し、その実力にほれた境川親方の熱意にほだされて、豊美さんも入門を勧めた。だが、豊響は師匠の前でその母に「だったら、お前が行けよ」と悪態をついた。

 「女手一つで育ててくれたお母さんに、居直った態度を取ったとき『テメェ、コラーッ! 誰のおかげで大きくなったと思ってんだ! 親に向かってそんな口を聞くヤツはいらねぇっ! こっちから願い下げだ!』と、私の方から断ったんです」。

 98年5月に弟子2人から始まった現境川部屋。今でこそ関取5人を抱えるが、当時の関取は岩木山1人で、人数も少なかった。弟子は1人でも欲しいところ。まして、有望株。それでも親方は、許せないと思った行為に目をつぶってまで入れようとはしなかった。

 それから2年が過ぎた。造船会社の船でサビを落とす力仕事や、毎日3トンの米を運ぶトラックの助手など、アルバイト生活をこなしていた豊響は自ら、境川部屋の門をたたいた。そして、師匠に当時のことを謝罪して、入門を願い出た。

 「2年後、自分から門をたたいてきました。『今度はお前から来たか! よく分かった。その根性で、半年で何とかしてやろう! だから、命懸けて来んかい!』と。相撲は不細工で、宝千山や岩木山の胸を借りて毎日、泥だらけになりました。関取になるまで3、4回は泣きました」。

 そうやって命を懸けてついてきた弟子の姿を、境川親方は涙を隠さずに、出席者に訴え続けた。

 「男は背中を見せんかいと言ってきました。義理人情、受けた恩を忘れなければ、男は強くなると。それを成し遂げたのが、豊響であります! 受けた恩を、豊響は決して忘れる男じゃありません。おふくろさんを粗末にしたら、オレが大変なことになっちゃいます。きっちりした男に育てていきます。豊響は、男として信用できる男です!」。

 もしかしたら、親方の熱いスピーチに聞き入っていた私の顔が印象的だったのかもしれない。披露宴が終わった後、親方の方から「恥ずかしいところをお見せしたね。しゃべりは得意じゃないんだよ」と照れながら言ってきた。とんでもなかった。もし、自分が力士を目指していたら「親方についていきます!」と言ってしまいそうだった。豊響も「師匠の言葉を聞きながら、12年間のいろいろなことが思い出せて、また明日から頑張れる気がします」と言っていた。

 中身の濃い、4時間超の結婚披露宴。うたげが終わった後もしばらくの間、その余韻に浸れていた。【今村健人】