先日、男子ゴルフの石川遼プロ(24)と話をする機会があった。

 昨年まで4年間、ゴルフ担当記者としてお世話になった。当時の思い出話は尽きないが、遼プロは「ところで、サッカー取材はどうですか?」と話を振ってきた。

 遼プロは中学までサッカーもしていた。今でもサッカー観戦は好きだ。

 もちろん、米国を拠点にする現在は、会場に足を運ぶことはままならない。それでも14年、日本対コスタリカの親善試合がフロリダで行われた際は、現地で観戦した。

 だから「槙野選手は」「柏木選手は」と、私が担当する浦和の選手のこともよく知っている。その会話の中で「あれ?」と感じることがあった。

 遼プロは「ホントかっこいいですよね。鈴木啓太」と言った。なぜか、MF鈴木啓太(34)だけが呼び捨てだった。その後は「啓太選手」と言っていたが、最初の呼び方が耳に残った。

 遼プロは我々も頭が下がるくらい、いつも物腰が低く、言葉遣いも丁寧だ。それをよく知るだけに、不思議に思ったのだ。

 答えに導いてくれたのは、遼プロのサポートスタッフのひと言だった。

 「遼は中学まで、埼玉スタジアムにレッズの応援に行っていたんです」

 10年前。遼プロが普通のファンとして声援を送っていた浦和で、主力としてプレーしていたのが鈴木だった。

 他の浦和の選手は、自分もプロの世界に入ってから知った選手。だからアスリート同士として「槙野選手」と敬称になる。しかし、鈴木は違う。

 6万人収容の埼玉スタジアムのど真ん中、あるいはテレビの向こうで躍動するスーパースター。サッカー少年にとって、はるか高みでプレーするあこがれの存在だった。今も残る当時のファン感覚が、つい「鈴木啓太」と言わせたのだ。


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 その鈴木が、今季をもって現役を引退する。

 オシムジャパンを担当していた私にとっても、特別な選手だ。オシムさんが日本代表を指揮したのは、全部で20試合。鈴木はそのすべてで先発出場した。

 周囲の選手をサポートするために、ボールを持っていても持っていなくても、ピッチを走り回る。

 そんな選手に対するオシムさんの呼称「水を運ぶ選手」を世に広めたのは、まさに鈴木だった。


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 遼プロと会ってから数日後。無性に当時の話をうかがいたくなった。オシムさんの通訳をされていた、千田善さんのもとを訪ねた。

 駅から少し歩いた、こぢんまりとしたコーヒー店。ひきたての豆の香りを愛でているのか。それとも当時を懐かしんでいるのか。メガネの向こうの目を細めながら、千田さんが語り出した。

 「実は、啓太選手はオシムさんの構想に入っていなかったんです」

 06年8月4日。体制初戦の親善試合トリニダード・トバゴ戦を前に、オシムさんは代表メンバー13人を発表した。

 「オシムさんはセンターラインを、浦和の選手で固めようとしてました。だから6人も呼んだのですが、その中に啓太選手はいませんでした」

 その夜。オシムさんのもとに、1本の電話が入ったという。浦和のブッフバルト監督からだった。「うちにはもう1人、素晴らしい選手がいる」。それが鈴木啓太だった。

 翌日、日本協会は5選手の追加招集を発表した。その中に、鈴木啓太が入っていた。試合前の合宿では、献身性、運動量がオシムさんの目に留まった。トリニダード・トバゴ戦では先発に抜てきされた。

 ただ、それで立場が約束されたわけではなかった。次戦アジア杯予選イエメン戦では、A3杯出場のため未招集だったG大阪、千葉の選手たちがチームに加わった。07年に入るとMF中村俊、FW高原と海外組も招集されだした。

 当初のメンバーは、少しずつチームから離れていった。鈴木も新メンバーが加わるたび、事前合宿ではいったん控え組に回された。

 それでも試合となれば、先発に名を連ねた。その積み重ねで、鈴木は20試合連続で先発の座を勝ち取った。千田さんは言う。

 「オシムさんは南アフリカW杯に、啓太選手を必ず連れて行くと決めていたわけではありません。でもオシムさんが倒れなければ、おそらく啓太選手はW杯に出られたんじゃないかなとは思います。エースが俊輔選手だろうが、他の選手だろうが、パートナーとして啓太選手を組ませた方が、オシムさんのチームは機能しますから」


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 「なつかしいですね。当時はとにかく必死でしたよ」。数日後、大原サッカー場。練習を終え、スパイクのひもを緩めながら、鈴木が遠い目をした。

 06年10月のインド戦では、前半終了後にオシムさんから、特大のカミナリを落とされたという。

 「前半の内容が悪くて。そうしたらハーフタイムのロッカールームで、あの大きな身体が目の前に来た。そして『今すぐにこの会場から消え去るか。リベロをやるか。どっちにするんだ』と聞いてきました」

 凍りつきそうになりながら、必死に「リベロをやります」と答えた。中学2年を最後に、リベロなどやったことがなかった。それでも見よう見まねで、残りの45分間必死でプレーした。

 試合は3-0で勝った。オシムさんは「リベロ鈴木」のプレーぶりについて、特に言及することはなかったという。

 オシムさんは問題があれば必ず指摘する。おそらく、鈴木のプレーは及第点以上だったのだろう。むしろ、ほぼ未経験のポジションだろうが構わず、チームのために駆けずり回る姿勢を、好ましく感じたのではないかと思う。鈴木は言う。

 「オレはラッキーなんですよ。自分の下手さがずっとコンプレックスなので、逆にうまい選手のために走るしかない、と割り切ることができる。だからオシム監督の代表でも使ってもらえたし、浦和でもここまでやって来られたのかなと思うんです」


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 オレはうまくない。そんなコンプレックスを持ち続けてきた鈴木だが、だからこそ多くの指揮官の信頼を勝ち取ってきた。そして多くのファンの心に、いつまでも残る存在になった。

 鈴木の現役最後の大会は、浦和が準々決勝に進出している天皇杯になる。26日の同神戸戦に向けた練習では、控え組でのプレーが多い。引退の花道を飾る出場機会が回ってくるかは、微妙な状況だ。

 だが、立場が約束されないことなど、鈴木は意に介さない。「ずっとそういう状況の中でやってきて、成長できたわけですから」。だからこれまでと同じように、試合に向け淡々と準備を進めている。早朝。練習後。ひとり黙々と、体幹強化メニューをこなす。

 遼プロが「鈴木啓太」と呼んだことを伝えてみた。鈴木は「へえ、遼くんはそう思ってくれているんですね。なんか、ホントうれしいなあ」と顔をほころばせた。

 しばらく感慨にふけっていたが、やがて表情を引き締めた。スパイクを脱いでいたベンチからスッと立ち上がる。そしてゆっくりと、トレーニングルームへと向かっていった。

 エリートとは言い難い。約束された未来などなかった。しかし鈴木啓太はひたむきに走り続けることで、かつての遼プロのようなサッカー少年の「ヒーロー」になった。そして現役最後の日まで、懸命に走り続ける。【塩畑大輔】




 ◆塩畑大輔(しおはた・だいすけ)1977年(昭52)4月2日、茨城県笠間市生まれ。東京ディズニーランドのキャスト時代に「舞浜河探検隊」の一員としてドラゴンボート日本選手権2連覇。02年日刊スポーツ新聞社に入社。プロ野球巨人担当カメラマン、サッカー担当記者、ゴルフ担当記者をへて、15年から再びサッカー担当。