青森山田の黒田剛監督(46)は、目に涙を浮かべながら会見場に入ってきた。

 悲願の初優勝ですが? と聞かれると、監督の口からせきを切ったように思いがあふれた。「16年12月の高円宮杯U-18チャンピオンシップから日がなく、コンディションもきつい中で、選手が最後の最後まで息つく暇もなく走り回ってくれたというのが正直な気持ち。昨年(準決勝敗退で)3位ということで、リベンジをしたいという合言葉で日本一を目指して頑張ってきました」

 94年に青森山田のコーチに就任し、翌95年に監督に昇格。就任1年目で同校を2度目の選手権に導き、97年度から20年連続で選手権出場を続けてきた。01年度にはブラジル人留学生のMFジュニーニョを擁して4強に入ったものの、それ以降の8年は1回戦負けが1回、2回戦負けが2回、3回戦負けが5回と全然、勝てなくなった。

 「3回戦の壁を乗り越えられない。『山田は、それ以上、行けないんじゃないか』と、いろいろなうわさも流れる中『これだけやってきた中で、なぜ勝てないんだろう』と悩む時期もあった」

 その中、元帝京監督の古沼貞雄氏、鹿児島実の松沢隆司総監督ら先輩指導者から「行く時は一気に行く、優勝するよ」と元気づけられ、吹っ切れた。そして7年前、現鹿島MF柴崎岳らを擁し、3回戦の壁を乗り越えると、決勝に進出し、準優勝した。選手には「強いかどうかは分からないけれど、自分たちのやってきたことを信じろ」と選手に言い続けた。大会後も、選手には日常生活から1分、1秒を無駄にしない生活をすることを言い続け、それを積み重ねてきたという。

 それでも、優勝には手が届かなかった。圧倒的にボールを支配していてもPK負けしたり、勝ちきれないこともあった。その中、11年から高体連の高校チームとJクラブのユースチーム、クラブチームが東西に分かれて行う、全国規模のリーグ戦「高円宮杯U-18プレミアリーグ」が開幕した。高校、クラブチームなど各地の強豪と6シーズン、戦う中でつかんだものがあった。

 「ポゼッションだけでも、カウンターだけでも勝てない。リスタート(を確実に決める)だけでも結果を出すことが出来ないのは重々、分かった。その中で出た結論が『全てできないと…全て、全国のトップレベルで磨きをかけないとダメだ』ということ」

 この日の決勝戦は序盤、押し込まれた。準決勝で戦った東海大仰星の、ロングボールを蹴ってくるサッカーとは正反対の、パスを巧みにつなぎつつ選手も走る、人もボールも動く前橋育英のサッカーに後手に回った。ただ「準々、準決勝は速いサッカーをやられた。前橋育英はつなぐのがうまい。そのサッカーをやってきた」と、相手の戦い方は織り込み済みだった。そこで、得点王を狙っていたFW鳴海彰人(3年)に「得点王は意識せず、黒子に徹し、3年間で1番走ってこい」と言って、ピッチに送り出し、前線で徹底的にボールを追わせた。

 そうして前橋育英の猛攻を食い止め、エースのMF高橋壱晟(3年)が、前半23分に5戦連発となる先制ゴールを決めた。黒田監督は「山田はポゼッション、堅守速攻…いろいろな要素の中、成長させてきたトータルサッカー。鳴海を速く走らせようとして…いい形で出来た」と振り返った。

 進化したのは戦い方だけではない。選手の精神、人間性を育む土壌も醸成した。J1東京入りするGK広末陸(3年)、J2千葉入りする高橋らを擁するタレント軍団と言われるが、東京のユースに昇格できず、進学した広末をはじめ、Jクラブの下部組織などで悔しい思いをした生徒が、雪深くハンディのある青森山田の門をたたいてきた。その選手たちを、雪深い青森で精神面から鍛えた。

 「雪や(地元とは違う)生活環境の中で培うことはすごく大きい。確かに彼らはJリーグのユースに行けなかった、そういう評価を受けてしまった子たちのハングリー精神を理解、評価し、いい方向にベクトルを向ける。彼らが、そこに真摯(しんし)に向き合ったことが伸び率に伝わった。逆境、我慢があれば選手は工夫し、よく伸びる。サッカーができる時間が全てではない。サッカーができず雪かきをしてる時間、寒いと言いながら朝の食事当番、皿を洗ったりご飯を炊く時間が彼らを成長させた。その姿を見せられた彼らを評価したい」

 そんな黒田監督も、一瞬、父の顔になった。涙の理由について聞かれ「私も(会場に)息子がいたものでしたから…涙が出た。私の22年の指導者人生で、この日を迎えられたことがうれしい」と、涙でぬれた目を輝かせた。【村上幸将】