「外れるのはカズ、三浦カズ」。今もこの言葉が脳裏に刻まれている人も多いだろう。
1998年(平10)6月2日、直前合宿地スイス・ニヨンで、サッカー日本代表の岡田武史監督が、長年、エースとして日本サッカーをけん引してきた31歳のFW三浦知良の代表落選を発表した。日本が初出場を決めたW杯フランス大会開幕8日前の非情の通告だった。
衝撃の大きさゆえに、カズの名前がクローズアップされたが、正確には「外れるのは市川、カズ、三浦カズ、それから北沢」と岡田監督は発表している。最初に名前を告げたのは、同年、清水でJリーグデビューし、前月に18歳になったばかりの高校3年生、市川大祐だった。
W杯代表枠は22人。日本サッカー協会は5月7日に直前合宿に参加する25人を発表し、登録期限直前に3人を外す方法をとった。当初、岡田監督は落選した3人もスタッフとしてW杯に同行させる方針だったが、カズと北沢は発表前に合宿地を離れて3日後に帰国。市川だけが「残してください」と残留を志願した。
1人だけ夢の舞台に立てない。栄光のW杯代表という強い光の中での、彼の孤独感は想像もできない。「居場所がなかった」と本人も当時の心境を語っている。それでも練習のためにコンディションを整え、W杯に臨むチームの空気をすべて吸収しようと努めた。22人中GKが3人。市川がいたことで、何とか11対11の紅白戦が成立した。
このW杯の翌年春に『オーバートレーニング症候群』を発症。準優勝した99年ワールドユース選手権も、00年シドニー五輪もメンバーから外れたが、Jリーグで地道に結果を残した。01年はフル出場を果たし、アシストランクも1位に。逆風にも腐らず、めげなかったのは、あのフランスでのまぶしい光の残像と、「次こそは」の強い信念のたまものだろう。
02年W杯日韓大会の開幕3カ月前にフィリップ・トルシエ監督から日本代表に招集され、本大会出場を果たす。磨き抜いた右サイドからの精度の高いクロスは日本の武器となり、1次リーグ突破を決めたチュニジア戦ではMF中田英寿のゴールを見事にアシストした。このシーンは彼の落選からの4年間、挫折と涙、怒りや悲しみ、すべてが凝縮されているようだった。
あの岡田監督の会見から25年。今、振り返ると6月2日は本来、日本初のW杯代表メンバーが決まった歴史的な日である。なのに発表されたのは落選した3人の名前。開幕直前の選考も外れる選手への配慮が足りなかったが、何しろ当時の日本にとってW杯は何もかもが初体験。無理もなかったのかもしれない。
カズはW杯のピッチに立つことはなかったが、56歳になった今も現役を続け、今季はポルトガル2部でプレー。5月30日に帰国して「オファーを待つ」と、現役続行に意欲をみせた。市川は16年シーズンを最後に引退。その後は清水でユース世代の監督として地道に経験を積み、今季からJ2に降格したトップチームのコーチに抜てきされた。
2人の歩みを25年という長い歳月で振り返ると、「悲劇」とはまた別のドラマが見えてくる。人生は苦難や挫折、不条理に満ちている。それでも前を向き、夢をあきらめずに地道に挑戦を続ければ、それだけで人生は輝くのだという崇高な物語である。【首藤正徳】