「原稿が終わったら一緒に来い。連絡しろよ」。大きな右手のスナップを利かせ、ひょいっと招かれた。殿堂入りが決まった16日、祝賀会を終えた楽天の星野仙一副会長(70)である。同僚の古川記者と一緒にお祝いをすることになった。

 友人の顔ぶれを見れば分かるが、年齢や肩書で付き合いを変える人ではない。特に古川記者とは長く監督と番記者の間柄で、彼の純朴をことのほか好んだ。厳かな時間を終えた直後にのんきな2人を見かけ、ふと肩の力を抜きたくなったのだろうと理解した。

 発表は午後5時。お祝いのメールが続々と届いた。「松山からだ」。プロゴルファー・松山英樹のメッセージに目尻を下げた。

 東北福祉大出身の松山は、バッグに「がんばろう東北」のステッカーを付けてプレーしている。東日本大震災が発生した11年に、楽天がユニホームの袖に縫い付けアイコンとした。「うれしいよな。こっちからお願いした訳じゃないのに、自分で考えてそういうことをしている。立ち位置と、スポーツが持つ力を理解している。自然にできることがうれしいじゃないか」。

 すしをつまんだ。磨き上げた器に握りが置かれていった。星野氏の器には、置いた場所にしか米粒の跡が残らなかった。すしが隠れる手の大きさだが、指先の繊細さが際立った。岩隈(現マリナーズ)の一糸乱れぬブルペン投球を見て「特に投手は、一流になればなるほど教えられない領域がある。その領域が勝負を支配する」と話したことを思い出した。

 会見の大半を野球界の未来に費やしていた。「意外なスピーチでしたね」「おれはもう、別にいいんだ。今、球界は大きな転換期に来ている。ここで踏ん張らないとガクッといく。だから言った。それとな、コミッショナーに話したんだけど…」。提言の言い残しかな、との予測は外れた。

 「殿堂入りの仕組みを、もう少し何とかできないものか。今回も故人が2人いた。亡くなってからでは意味がないとは言わないが、残した功績が文句なしで、入ってしかるべき人であるならば、何とか生きている間に表彰し、光を当てるべきだろう」

 昭和44年夏の松山商-三沢の球審をはじめ、甲子園の決勝31試合で審判を務めた郷司裕氏。プロアマのルールブック統一に尽力した鈴木美嶺氏。関係者は非常に喜んでいたという。「天国の当人は、もっと晴やかなはずさ。生きている間に殿堂入りしたら、うんと喜んだと思うよ。秋山登さんもな…」。岡山出身、明大卒の先輩で、没後4年で表彰された大投手を懐かしんだ。

 古希を迎え、自由自在に時をまたいで語る。先人が踏みしめてくれた道のりを、もっと太くして残そうとしている。根底に流れるのは愛情と感謝か、責任感か、自分が生きた証か。深く複雑に絡まり合っている野球への思いを垣間見る時間は、野球を仕事としている身としては幸せなんだろう。「お前らどこに帰るんだ。会社か。ふ~ん。またな」。ふっと笑って大きな右手を振った。でかい後ろ姿を東京タワーのオレンジが照らした。【宮下敬至】