98年の正月。神戸製鋼のSHとして7連覇に貢献し、後に日本代表監督を務める萩本光威(みつたけ、59)は酒を飲んでいた。自宅の電話が鳴り、出ると「お願いがあるんですわ」と聞き慣れた声が響いてきた。前年に代表監督に就任した当時34歳の平尾誠二だった。95年度に連覇が途絶えると、3季連続でV逸。監督制を廃止し主将を中心とした自主性が神戸の象徴だったが、限界に近づいていた。

平尾はヘッドコーチ(HC)の重責を萩本に委ねた。「お前が俺でいいと言うのなら、力になる」。萩本は二つ返事で受け入れた。しかし、現場に出ると、チームは変わり果てていた。

「理想は選手が考えることだが、それができないほど甘くなっていた。鉄の男はさび付いていたんや。さびを取って、輝きを取り戻すことが使命やった」

厳しさを植え付けるため、全員で一日中モールを組んだ。20対20。2時間ぶっ通しで100メートルを押し続ける。「1人が逃げればモールは崩れる。1人がサボったらチームは負ける。逃げるな! そう言い続けた」。就任1年目に日本選手権準優勝。翌99年度から社会人、日本選手権で2年連続で2冠を達成した。

その後、2季連続で優勝を逃すと萩本は辞任を決意する。その意志を悟った平尾から「もう1年お願いします」と頭を下げられた。逃げ出すわけにもいかず、腹をくくって臨んだトップリーグ元年に優勝に導く。復活させた萩本の横には、常に平尾の存在があった。

今、萩本はチームを離れ、平尾は16年にこの世を去った。15年もの低迷期を脱し、神戸製鋼は再び頂点に立った。萩本はしみじみと言う。「歴史が地層となり、その上に新たなものが積み上げられていく。選手には『お前たちが新しい神戸の歴史をつくれ』と、そう伝えたい」。(敬称略、おわり)【益子浩一】