東京と東北を結ぶ、もう1つの動脈が9年ぶりにつながる。東日本大震災で多くが不通となったJR常磐線は、3月14日に福島県内の富岡駅~浪江駅間で運転が再開され、全線復旧する。「3・11」に合わせ常磐線を行き、沿線の野球を巡る。上野発の特急ひたちに乗って北上し、日立駅(茨城県日立市)へ向かった。

 
 

上野をたち、およそ1時間半。右手にパッと太平洋が開けたら、日立駅はもうすぐだ。郷土が誇る建築家・妹島和世さんが監修した駅舎はガラス張りで大海原を見渡せる。

震災では数十メートル先まで浸水し、近くの工場から白煙が上った。電車も1カ月ほど止まった。あれから9年。駅中のカフェは若者であふれ、インスタ映えスポットになっている。

中央口から歩いて10分足らずの商店街「まいもーる」は対照的だった。週末の昼下がりでも、人影はまばら。「過疎化だよ。老人ばかりだ」。創業1911年(明44)の小川屋酒店3代目、小川洋典さん(79)はあっけらかんと話した。右隣のはんこ屋から、その先のお茶屋まで駐車場になってしまった。道を挟んでも「P」マークが目につくが、どこも空車ばかりだ。

往時はにぎわった。「柏や水戸はサッカーだけど、日立は野球の町。日本鉱業と製作所で、昭和の頃は盛り上がったな」。日鉱日立と日立製作所。人気を二分した両者は大正末期から定期戦を重ね「お山の早慶戦」と呼ばれた。小川さんは日鉱ファンだったが、都市対抗に日立製作所が出れば、もちろん応援した。

小川屋酒店3代目、小川洋典さん(撮影・古川真弥)
小川屋酒店3代目、小川洋典さん(撮影・古川真弥)

72年に日鉱が休部。楽しみは消えた。「飲み屋も社員でにぎわったけど、バブルがはじけてからはダメ。原発事故の影響もあるだろう。常磐線がつながっても、そんなに影響はないんじゃないか。便利にはなると思うけど」とつぶやいた。

日鉱日立にノスタルジーを抱く人は少なくない。前日立市長の吉成明さん(75)もその1人。現在は県野球連盟会長の脳裏には、ミスターの姿がある。中学1年の冬、57年12月2日だった。水戸の県営球場まで、立大と日鉱日立の親善試合を見に行った。「人と人の間から首を出しましてね。『あ、長嶋だ。本屋敷だ』って、何となく映像が残ってます」と懐かしむ。

立大には長嶋(巨人)杉浦(南海)本屋敷(阪急)拝藤(広島)と、プロ入りが決まった4年生が4人もいた。2年時まで指導してくれた日鉱日立の砂押邦信監督を慕い、卒業前にやってきた。4番三塁の長嶋は4タコだったが、3-1で立大が勝った。砂押監督は試合前、長嶋、本屋敷らにノックを行い、9回には代打で登場。拝藤から中越え二塁打を放ち、大満足だったという。

当時の茨城新聞には砂押監督と4選手の写真が載っているが、選手たちのユニホームは無地だ。追い出されるように大学を去った砂押監督との試合に、後任の辻監督が反対。妥協案として「RIKKIO」マークのない練習着だった。

57年12月3日の茨城新聞(国会図書館所蔵)掲載の写真。右から杉浦、砂押監督、長嶋、拝藤、本屋敷
57年12月3日の茨城新聞(国会図書館所蔵)掲載の写真。右から杉浦、砂押監督、長嶋、拝藤、本屋敷

お山の早慶戦は形を変え引き継がれている。日本鉱業は合併などを経てJX-ENEOSに。同野球部と日立製作所による3月の「さくら杯」は吉成さんが市長時代に提案し、昨年まで8回を数えた。「2企業が競い合い、町が盛り上がった。日立を活気づけるためにも、またやりたかった」。常磐線再開には「待ってました。地域全体の発展につながれば」と期待する。

野球の町を後にしよう。再び常磐線に乗り、県境を越えた。(つづく)【古川真弥】