来春センバツの「21世紀枠」の候補校に、高松一(香川)が挙がったことを喜んだのは、同校OBの中西太さん(88)だった。

「それはよかった。本当は実力で選ばれてほしいんだけど、もし甲子園に出場することが現実のものとなれれば、高松のみなさんは喜ぶでしょうね。そのときは頑張ってほしいと思います」

高松一で計3度の甲子園出場を果たした中西さんは、高校時代から「怪童」の異名をとるほどのスラッガーで、戦中戦後の野球界を支え続けた。

1949年(昭24)のセンバツは準々決勝の小倉北(福岡)に、伝説のエース福嶋一雄に0-4の完封負け。夏は準決勝でプロ入りした佐々木信也の湘南(神奈川)に延長10回サヨナラ負けだった。

51年夏の準決勝は平安に3-4で惜敗。岡山東の秋山登から2戦連続になるランニング本塁打を放つなど計6打点の活躍で、“甲子園の申し子”の元祖だった。

中西さんが「今の人には笑われますがね」という高校時代は、満足に道具もそろわず、スパイクなど夢のようなものだった。至近距離の集中キャッチボールでは血がにじんで、千本ノックの厳しい練習で鍛えられた。

特に思い出に残っているのは、高校から約1キロほどの所にロードワークにいく石清尾(いわせお)八幡宮での階段上りだ。足腰が鍛えられ、強靱(きょうじん)な下半身を築く、心身の鍛錬だった。

高校時代に正三塁手に抜てきされた中西さんは、泣きながらレギュラーになったことを母小浪に報告した。「わたしの青春時代だね」。西鉄入りした後はプロ野球界を背負うスターとして羽ばたいた。

中西さんは「もし母校がセンバツに出場したときには、甲子園に応援に行かなくてはいけないでしょうね」と目を輝かせた。【寺尾博和】