「陸の王者」が頂点に立った。慶応(神奈川)は仙台育英(宮城)を8-2で破り、1916年(大5)以来107年ぶり2度目の優勝を決めた。「慶応のプリンス」丸田湊斗外野手(3年)が、夏の決勝では史上初となる初回先頭打者本塁打を放ち、流れをつかんだ。5回には打者9人の猛攻で、連覇を狙った仙台育英の強力投手陣を打ち崩した。

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歴史を動かした。甲子園の中心に、慶応ナインの歓喜の輪ができあがった。107年ぶりの頂点。慶応野球部の長い歴史に、新たな1ページを刻んだ。

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初回、大音量の応援歌「若き血」が、スタンドの大歓声と重なった。まっさらな打席に入った丸田が、カウント2-2からスライダーを右翼席へ。公式戦初本塁打が甲子園での貴重な1発となり「すごい価値のあるホームランを打つために、今までためてたのかな。喜びが爆発するくらいうれしかった」と、笑顔でダイヤモンドをまわった。

夢見た光景だった。前日はチームメートに「先頭打者ホームランを打ってくる」と宣言。見事な有言実行。「必ず1番バッターで若き血が流れるので、自分がホームランを打って、(得点時にも歌う)若き血を2回連続再生させたいと思っていた。3年間の最後の試合でできたのは幸せ」と、ヒーローは喜びをかみしめた。

1888年、前身の三田ベースボール倶楽部が発足してから135年が経つ。第2回大会で慶応普通部が優勝を果たしたとき、会場は豊中グラウンド。甲子園で初めて、頂点に立った。伝統と新風を備える慶応野球部。大村主将は「高校野球を変えたい」と言い続けた。「エンジョイベースボール」を掲げ、自由な髪形だけでなく、笑顔でプレーする姿や「ありがとう」と感謝しながらベンチで声かけするのが印象的だ。「令和の高校球児」として爽やかさで話題になった丸田は「自分たちがトークテーマ(話題)を提供できているのは、目標の1つを達成できている」と満足そうに話した。

魅力的なナインの雰囲気は、昨夏新チーム発足後のミーティングがきっかけになった。昨年は選手それぞれの考えと、森林監督の考えがすれ違い、ぶつかることもあった。だが大村主将は「監督を信用しきって、選手もコーチも、一体となった代を作ろう」と呼びかけ、全員がうなずいた。

目標だった「KEIO日本一」を達成し、全国で一番長い夏にしてみせた。丸田は「世界中のどんな人を探しても最高の夏になった」と笑顔を見せたが、「ただ野球の日本一にふさわしい、人間としての日本一も目標。まだまだ道の途中なのかな」と話した。誇り高き慶応野球部の一員としての道を、これからも歩んでいく。【星夏穂】

▽横浜泉中央ボーイズの宇野和之監督(教え子の丸田の活躍に)「中学では通算2本でしたね。パンチ力があるのでいつかとは思っていましたが、まさか1番良い場面で出るとは。本当に丸田らしく最後まで駆け抜けた」

◆慶応の前回V 1916年(大5)の第2回大会(豊中球場)に慶応普通部として東京から出場。1回戦6-2愛知四中(現時習館)、準々決勝9-3香川商(現高松商)、準決勝7-3和歌山中(現桐蔭)と3試合続けて継投で勝ち進み、決勝では市岡中(現市岡)と対戦。エース山口昇が被安打3で完投し、6-2で初優勝した。当時は出場資格が厳しくなく、山口は慶大でも掛け持ちで投げていた。大会史上初の外国籍選手で、米国籍のジョン・ダンが一塁手で2番を打った。

◆1916年(大5)の出来事 世界では前年に続いて第1次世界大戦が開戦中。ドイツとイギリスで初めてサマータイム(夏時間)制度が導入された。国内では、夏目漱石が49歳で死去。総理大臣は10月に大隈重信の後を受けて、寺内正毅が任命された。大リーグでは21歳の元祖二刀流のベーブ・ルースが投手として23勝12敗1セーブ、防御率1・75で、防御率1位に輝いた。

◆慶応 1858年(安政5)に創設された蘭学塾が前身の私立の男子校。高等学校は新制高校として1948年(昭23)に開設された。生徒数は2180人、野球部は1888年(明21)に創部で部員数は107人。甲子園出場は春10度、夏は19度目。主な卒業生は楽天津留崎大成、ソフトバンク柳町達、ヤクルト木沢尚文。所在地は神奈川県横浜市港北区日吉4の1の2。阿久沢武史校長。