江夏の21球-。1979年日本シリーズ第7戦は球史に残る名場面として、今も語り継がれている。1点を追う9回1死満塁で元近鉄石渡茂氏(71)はスクイズを外され、「悲劇のヒーロー」になった。当時の思いやその後の野球人生に与えた影響、そして雪辱のスクイズ…。石渡氏が真相を語った。【取材・構成=石橋隆雄】

   ◇   ◇   ◇

日本一まであと数センチだった。近鉄、広島ともに勝てば初の日本一。3勝3敗の第7戦。3-4と1点を追う近鉄が9回無死満塁と守護神江夏を攻めた。完全に近鉄の流れだった。

石渡 相手は江夏。まさか、こんな展開になるとは正直、思っていませんでした。

代打佐々木が空振り三振。1死満塁で打席が回ってきた。小雨が降り続く大阪球場。石渡は三塁コーチのサインを見つめた。打席に入る前に、西本監督から、こうささやかれていた。「スクイズもあるから、サインをよく見ておけよ」。1球目は外角から入るカーブを見逃した。ストライク。2球目にベンチは動く。スクイズのサインだ。

石渡 ああ、出たなと。僕らの感覚で言うと、外すというのは直球で(バットが)全然届かない所へ外す。でもサイン交換した時には、そうじゃなかった。普通のカーブだったと思う。

ウエストの指示はない。石渡はそう思った。相手捕手の水沼は三塁走者藤瀬がスタートを切ったのを見て外そうと立ち上がった。

石渡 この球、バットが当たらないところじゃないもんね。フワンと曲がって来た。だから、タイミングがズレた。ちょっとバットが上から下へいくような感じ。彼(江夏)は「カーブで外すのを練習していた」と言っているから、まさにそれだと思うんですね。

藤瀬は石渡がこれまで見た中で一番の俊足の持ち主だった。バットが空を切った時、すでに三塁からホームの3分の2まで来ていた。無念のタッチアウト。捕手水沼は中大の2つ先輩で、大学時代は同部屋だった。話しかけても答えなかった石渡の姿を見て、スクイズと察したのかもしれない。

石渡 バントは得意じゃなかったですね。あのシーズンでスクイズは、記憶にない。マニエルを中心とした猛牛打線だったので。

それでも、まだ2死二、三塁。チャンスは続く。

石渡 江夏とは南海時代に対戦したことがあった。何とかバットに当たると思っていたが、膝元へいいカーブが来ました。

空振り三振で試合終了。広島ナインが歓喜の輪をつくった。紙テープが舞う中、ベンチに戻った。

石渡 やっぱり、張本人じゃないですか、僕は。その後、普通なら野球できなくなっちゃうかなと思うけれど、全然、そんなことは思わなかった。結構、考え込む方ですけど、西本さんや周りの人から何も言われたことはない。そのことに関して。その日も。ベンチに戻る時も。

当時の本拠地日生球場は収容人数が3万人に満たず、日本シリーズでは南海の本拠地大阪球場を借りた。敵地広島では外出禁止の指示が出るなど異様な雰囲気に包まれたシリーズだった。

石渡 広島は危ないということで外出禁止になった。それはやはり意識し過ぎ。シーズン中に外出禁止はなかった。当時は日本シリーズ全試合で指名打者も使えない。マニエルが守ったり…。もう、よそ行きですよね。

翌80年もリーグ優勝。再び広島と日本一を争った。第7戦の6回に、石渡は一時勝ち越しとなる右翼二塁打を放った。1年前のリベンジだ。

石渡 「あっ、このまま終われば」と。スクイズじゃないけれど雪辱できたと思っていたら逆転されてしまった。

リーグ優勝4回ながら近鉄は1度も日本一にならぬまま04年に消滅。石渡はその後、ソフトバンクに入った。2軍監督を務めた08年にウエスタン・リーグで24年ぶりに優勝し、長崎でヤクルトとファーム選手権を戦った。ここでスクイズのシーンがよみがえった。3点リードで迎えた8回だ。

石渡 だめ押しのチャンスでスクイズをしたんです。捕手の荒川雄太にスクイズのサインを出したら、うまくやってくれた。日本シリーズとは全然レベルは違うけれども、僕の気持ちの中では「よし、よし」と。自分の中だけですけど、一段落しましたよ。

ずっとモヤモヤしていたものが、少しだけ晴れた。40年前の苦い思い出を、こう振り返る。

石渡 全国の野球ファンが注目する中で、一番失敗した。だから、その後の野球人生で、それを取り戻そうというところを選手に伝えたかった。はい上がらなければいけない。そういう説得力は一番あるんじゃないかな。僕の名前ではそれしかないでしょ。成功した人には分からないものじゃないですか。

石渡は今も独立リーグや中学生を相手に指導を続けている。40年前の失敗を糧に、多くの野球人に1球の重みをこれからも伝える。

○…石渡は現在、横浜市の建設会社オセアンで参与として勤務している。今年1月からBCリーグ滋賀のGMも務め、元ロッテ成本年秀監督(51)らをサポートする。一方でヤングリーグのオセアン横浜ヤングにも関わる。こちらは元ソフトバンクの柳川洋平監督(33)だ。石渡は「中学生には野球をまず楽しんでほしいと思っています。BC滋賀は3年目のチーム。環境は厳しく、まだプロ入りできそうな選手はなかなか現れていないけれど、近いうちに送り出したいですね。体が動くうちは頑張りますよ」と、野球界発展のために積極的に動いている。

○…石渡のスクイズ失敗のシーンは、79年のカルビープロ野球カードにもなった。石渡は「いいところを撮っている。こんなボールが見えて、横から撮っているのは初めて見た。撮った人はすごい」と懐かしそうに眺めた。日本シリーズを振り返る22枚の中の1枚。裏には「球史に残る天下分け目のスクイズ封じ」とある。当時はパ・リーグの選手がカードになることは少なく、近鉄からはマニエル、梨田、鈴木らスター選手が中心。石渡が現役時代に発行されたカードはカルビーではこの1枚だけだ。

◆79年日本シリーズ近鉄VS広島 2シーズン制のパ・リーグで前期優勝した近鉄は、後期Vの阪急にプレーオフで3連勝し初優勝を決めた。大阪での第1、2戦は井本、鈴木の2枚看板で連勝。ところが敵地広島の熱狂的な応援に圧倒された近鉄は、一気に3連敗。大阪に戻った第6戦では、井本が完投勝ちを収め逆王手。第7戦で、2点を追う近鉄は5回、平野が同点2ラン。ところが6回、広島水沼に2ランを許し、再びリードを許す。1点差で迎えた9回無死満塁のチャンスをつかんだが、江夏の粘りの前に無得点に終わり、日本一を逃した。

◆79年日本シリーズ第7戦 3-4、1点差を追う9回裏近鉄の攻撃

6番・羽田 中前→代走藤瀬。無死一塁に。

7番・アーノルド 2ボール1ストライクから藤瀬が二盗を試みる。捕手水沼の悪送球で一気に三塁へ。(ヒットエンドランのサインをアーノルドが見逃す)。四球で歩く→代走吹石。無死一、三塁に。

8番・平野 1ボール1ストライクから一塁走者吹石が二盗。無死二、三塁に。捕手が立ち上がり敬遠。無死満塁に。

9番→代打佐々木 1ボール1ストライクから三塁線に微妙なファウル。内角低めカーブで空振り三振。1死満塁に。広島は前進から中間守備へ。

1番・石渡 初球カーブ見逃し。2球目カーブでスクイズ失敗。三塁走者アウト。2死二、三塁。3球目直球をファウル。4球目内角低めカーブで空振り三振。試合終了。

◆石渡茂(いしわた・しげる)1948年(昭23)8月12日、神奈川県生まれ。中学では丸刈りになりたくないと、野球部に入らず。早実高では1年の冬から主力に抜てきされた。中大を経て70年ドラフト2位で近鉄へ。3年目から出場機会を増やし、4年目の75年から遊撃でレギュラー獲得。83年の開幕前に太田幸司とともに巨人へトレード。この年、リーグ優勝も日本一にはなれず。85年限りで引退。通算1176試合、打率2割4分9厘。53本塁打、280打点、84盗塁、犠打93。引退後は近鉄でスカウトを14年間し、00年~04年は2軍監督。05年からソフトバンク入りし07、08、14年2軍監督、16年3軍監督。17年に退団。178センチ、73キロ(16年3軍監督時)。右投げ右打ち。