日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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“怪童”の異名をとった西鉄ライオンズ・中西太が、大リーグを考察したメモを残していたのは意外だった。そこには史上最高の打者といわれたテッド・ウィリアムズら名選手の名前がちりばめられている。
初夏を感じさせた5月11日は、中西が天に召されて3年が経過した命日だった。日本球界を代表するスラッガーで、あまたのスター選手を育てた名伯楽も、現役時代に野球大国を夢見たのだろう。
美しい花々に囲まれた自宅で、夫人の敏子に迎えていただいた。歴代2位の監督通算勝利数を誇った名将・三原脩の長女。中西もこの人にだけは頭が上がらなかった。
「おいっ、このこしあんのどら焼きはうまいな」
ダイニングの奥から敏子の声が届く。
「そうですか。でも、それ粒あんなんですよ」
「……」
しばらく沈黙が続いたものだが、そんな夫婦漫才のようなやりとりも、今では思い出深い。三原の“メモ魔”は有名で、すでに大リーグに詳しかった。義父で、師と仰いだ中西も本場に興味を抱いたのだろう。
こまめにつけた“中西メモ”について、敏子は「よく父(三原脩氏)が翻訳したものを写していました」と教えてくれた。
あるページには、カージナルズの大打者で通算3630安打を記録したスタン・ミュージアルが1958年の日米野球で来日した際、本人から聞き込んだことを書き留めている。
中西とミュージアルの2人が、メジャー最後の4割打者、2度の三冠王だったテッド・ウィリアムズの打撃について語った末に「もっとも大切なことだと確信した」と結論づけた記述がある。
「それは『ストライクゾーンを知ること』である。だれでもストライクとボールの区別ぐらいつくさと言うところだが、ボールばかり打っていては大打者になる資格はない。(スタン・ミュージアル氏は)『我々が日本に旅行(1958年秋)してオープン戦を行ったが、日本人選手の最大の欠点はストライクゾーンを知らぬことであった』と言うものだ。それでカージナルズの投手陣は大いに助かったというのだ」
また「ジョーディマジオの打撃論」と題したページには、スタンスから体重移動までの打法を詳細に記している。大リーグに精神面から技術面までを学んでいたことが伝わってくる。
球団拡張でダイヤモンドバックスが創立された1998年、中西が打撃コーチとしてオファーを受けたことは知られていない。球団から英文の正式親書が届いたが、当時体調がすぐれず断りを入れている。
その中西が生前に気にとめていたのが、ヤクルトに在籍した現ホワイトソックスの村上宗隆だった。
高卒2年目だった19年の村上は、初めて開幕からスタメンに名を連ね、全143試合に出場した。そして高卒2年目以内の記録として、中西の36本塁打に並び、96打点で中西が保持した86打点を塗り替えた。
ヤクルトは敬愛した三原が新監督に就いた1971年、ヘッドコーチとして一緒に選手を指導した思い入れのある球団だった。神宮に足を運んでは、村上に「お前のおかげでおれの名前が新聞に出てるよ」と激励した。
拙者も中西と一緒にネット裏に座って、敏子が用意した愛妻弁当をごちそうになりながら、まだ若手だったヤクルト村上のバッティング解説に耳を傾けたものだ。
「見とけよ。あいつはホームランバッターになるよ。村上の強みはなんといっても広角に打てることだ。特に左方向に飛ばせるのは、外角球をバットで『押す』のでなく、しっかりと『打つ』ことができている証拠だよ。心掛け次第だな。今は、とにかくバットを振ることだ。ひたすら振るんだ」
中西が「すくすく育ってほしい」といった期待通り、村上は史上最年少の三冠王に輝くなど、日本球界をのし上がった。そして、今シーズンは米大移籍1年目から本塁打、打点でトップ争いをしている。
生前の中西は、ヤクルトでデビューした村上とのやりとりをうれしそうに話していた。
「村上に『毎晩、バットを振るんだぞ』と言ったら直立不動で『はい、振ってます』という返事だったから安心したよ。ヤクルトには土壌があるからね。コーチがちゃんと仕込んでいるよ」
メジャーのストライクゾーンをつかんだのだろうか。戦後の復興期に海の向こうにあこがれた中西の夢を紡ぐかのように、日本人選手が羽ばたく。村上の活躍に“怪童”がだぶって見える感傷的な日だった。(敬称略)



