7月4日は約1カ月ぶりのタイトルマッチのはずだった。ところが、日本スーパーライト級王者岡田が拳を痛めて中止になった。セミからメーンに繰り上がったのはウエルター級8回戦の日本ランカー対決。たまには視点を変えてと、いつものリングサイドの記者席ではなく観客席に座った。

 リング全体を見渡していると、青コーナーの1人から目が離せなくなった。セコンドはおそろいの黄色いポロシャツ。その人はジーンズ姿で、選手入場では手を上げて観客をあおっていた。

 ヨネクラジムの米倉健司会長。御年81歳だが、試合中1度も座らなかった。リングへの階段途中で中腰になり、選手から目を離すことはなかった。インターバルになるとリングへ上がり、ロープの外から選手にアドバイスを送っていた。

 明大時代の56年にメルボルン五輪に出場し、58年にプロへ転向した。当時最短の5戦目で日本フライ級王者になり、7戦目で世界挑戦した。日本人として白井以来2人目だった。60年にも世界挑戦したが、2度とも判定負けでベルトは逃した。

 63年にはジムを開き、柴田国明、ガッツ石松、中島成雄、大橋秀行、川島郭志と5人の世界王者を育てた。協栄ジムの12人、帝拳ジムの10人に次ぐ。東洋太平洋は8人、日本は31人と合計44人のチャンピオンは日本のジム最多を誇る。

 70歳をすぎてもミットを持ってパンチを受け、朝のロードワークにも付き添っていた。福岡高でボクシングに出会い、70年近く拳闘一途に生きてきた。

 大橋、川島時代にジムに通った。当時は鬼塚らの協栄の先代金平会長、葛西らの帝拳の本田会長と、3人の会長が競っていた感がある。取材をしていて思いついたのが、金平マネジャー、本田プロモーター、そして、米倉トレーナーのトリオだった。

 3人の特長を結束すれば、すごい選手ができ、すごい試合が見られるのではと空想した。いずれもボクシングに懸ける思いは強い。中でも米倉会長は全面から出てくる情熱が肌に伝わってきた。「なんとしても6人目の世界王者を誕生させたい」。その情熱はいまだ衰えていない。【河合香】