ギラン・バレー症候群を克服して土俵に上がっている行司がいる。

幕内格行司の式守勘太夫(52=宮城野)は、2017年12月の冬巡業中にギラン・バレー症候群を発症し、18年初場所から5場所連続休場。同年九州場所で本場所復帰を果たし、今年の九州で丸3年になる。土俵での所作を見る限り、特に問題はない。近況を聞くと「まだ100%ではないんです。だいたい8割くらいで、あとの2割くらいは不自由なところがあるんですよね」と明かしてくれた。

突然、症状が出たのは、17年12月8日。式守与之吉を名乗っていた当時の宮崎市巡業の朝。腕に力が入らなくなり、顔が洗えなくなった。緊急帰京したが、羽田空港に着くころには自力で歩けなくなった。原因は不明。四肢に力が入らなくなる病気、ギラン・バレー症候群だった。緊急入院し、5日間点滴を受け続け、リハビリ開始。当初は首しか動かせず、歩けるようになったのは18年4月から。復帰をあきらめた時期もあったが、懸命の治療の末、同年九州場所から土俵に戻った。

あれから3年。いまだ、完全回復の途上にある。

「一番は、握力が戻らないんですよ。一時は40何キロくらい両方あったんですけど、今は片方で15~20キロで。思い切りぐーっとつかむのが難しいところなんですよね。あとは、小刻みに手が震えます」

握力をカバーするため、右手に持つ軍配は軽いものに代えた。毎日1時間、硬めのゴムを指に引っかけ、指で引っ張るリハビリを続けている。通院は2カ月に1回。経過を報告し、今後のリハビリについて医師から助言を受ける。もともと76キロあった体重は一時、10キロ以上も減ってしまったが、今は70キロまで戻ったという。

飲み薬も服用している。効き始めると、3、4時間だけは手の震えが止まる。本場所中は自分の出番がくる1時間前に、2種類の錠剤を1錠ずつ飲む。仕事をまっとうしようとする強い気持ちで取組を裁き、復帰後もミスはほとんどない。1度だけ、力士とぶつかって転倒したくらいだ。

行司を務められる喜びに加え、励みとなる後押しもあった。

かねて支援してくれた後援者、エド川薬局が復帰を祝って装束を贈ってくれた。デザインは、勘太夫が自ら担当した。1年半かけて仕立て、今年の夏場所で初披露した。

上半身などに5色のトンボがあしらわれている。前にしか飛ばない「勝ち虫」として相撲界では特に縁起がいいとされ、浴衣地のデザインに組み込む関取衆も多い。勘太夫は左右の羽の大きさに工夫を凝らし、横綱土俵入りの「雲竜型」と「不知火型」を表現したというこだわりの装束だ。

日ごろは東京・荒川沿いを自転車で往復するなど、下半身強化に努めており、100%の体調回復まで少しずつ歩みを進めている。リハビリ期間とコロナ禍が重なったため、常に用心してきた。

今年7月には、米食品医薬品局が、米ジョンソン・エンド・ジョンソン製の新型コロナウイルス感染症のワクチン接種により、ギラン・バレー症候群の発症リスクが高まる可能性があると発表した。ギラン・バレー症候群は大半の人は完全に回復する。米国の例ではあったが、当事者としてはワクチン接種に慎重にならざるを得ない。熟考の末、ワクチン接種に踏み切り、発熱などの副反応もなし。前向きに、九州場所へ向けて体調を整えている。

病気を経験し、仕事へ向き合う気持ちには少し変化も表れた。「やる気がないわけじゃないんです」と前置きし、勘太夫はこう続ける。

「偉くなりたいとかそういう気持ちは一切なく、65歳まで細く長くやれればいいという気持ちですね。(定年まで)まっとうすることが夢ですね。欲は頭の別のどっかにいっちゃっています。寝たきりで首しか動かなかったので、こうやって歩いてご飯を食べられるのが不思議ですよ」

行司の世界は、基本的には年功序列。定年は65歳。行司なら誰でも、最後は立行司になることを夢見る。式守伊之助をへて、木村庄之助を襲名することが、何よりの名誉だ。

12代式守勘太夫-。端整な顔立ちに、張りのある声、そして背筋が伸びる美しい所作。行司としての華がある。

勘太夫は今、出世に目を向けるより、目の前を生きている。【佐々木一郎】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

◆式守勘太夫(しきもり・かんだゆう)本名・菊池浩。1968年(昭43)11月15日、東京生まれ。1984年春場所初土俵。これまで式守国浩、式守錦之助、式守与太夫、式守与之吉を名乗り、19年夏場所から12代式守勘太夫を襲名。現在は幕内格行司。