大相撲の元大関朝潮で先代高砂親方の長岡末弘さんが2日、小腸がんのため死去したことが3日、分かった。67歳だった。近大時代にアマ、学生横綱の2冠の実績を引っさげ高砂部屋に入門。強烈なぶちかましで千代の富士全盛時代に活躍。幕内優勝も果たし大関にも昇進した。現役時代同様、引退後も陽気なキャラクターから「大ちゃん」の愛称で親しまれ、広報部長などを歴任。師匠として横綱朝青龍、大関朝乃山らを育てた。65歳の定年翌年の21年6月に日本相撲協会を退職。1年前に発症したがんと闘いながら懸命なリハビリ生活を送っていた。

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「大ちゃん」の愛称で知られた陽気なキャラクターと豪放磊落(らいらく)な性格で一時代を彩った、昭和のお相撲さんがまた1人、この世を去った。長岡さんは1年前に小腸がんを発症。懸命なリハビリ生活を送っていたが現役時代、豪快なぶちかましや突っ張りで相手を圧倒した力でも、病魔には勝てなかった。

2年連続で学生とアマ横綱に輝き78年春場所で初土俵。幕下60枚目格付け出しでデビューすると、2場所後には新十両、その2場所後には新入幕と出世街道をひた走った。79年には「朝汐太郎」に改名(その後、朝潮太郎)。高見山、富士桜ら兄弟子の猛稽古で力をつけ小錦らと名門部屋をけん引した。千代の富士との優勝決定戦では2度敗れ、大関とりの壁に何度もはね返されたが、北の湖に12勝7敗(不戦勝1は含まず)と勝ち越すなど存在感は抜群。83年初場所で3横綱を総なめ(北の湖、若乃花、千代の富士)にし翌春場所で大関昇進を決めた。85年春場所では「第2の故郷」の大阪で初優勝。昭和から平成に元号が変わった89年の2場所目の春場所で初日から4連敗し引退した。

引退後は90年3月に先代若松(元関脇房錦)から若松部屋を継承し、02年2月には部屋を合併し7代目高砂を襲名した。理事も4期歴任し自分が果たせなかった横綱昇進の夢を朝青龍でかなえた。

ただ、その後は苦節の時代を送った。朝青龍の引退の引き金となった暴行事件には、師匠として指導力不足が指摘され、役員待遇から降格(その後、役員待遇委員に昇格)。それでも朝乃山を指導し大関に育て上げ「問題を起こす横綱もいたが落ち着いたら朝乃山がタケノコのように伸びてきた。いろいろな意味でついている人生」と話していた。

定年を機に錦島親方(元関脇朝赤龍)と年寄名跡を交換し部屋を継承させた。だが朝乃山のガイドライン違反が発覚。その調査の過程で錦島親方の違反も判明した。「俺が辞めて丸く収まるなら」と退職届を提出し日本相撲協会もこれを受理。21年6月10日付で退職していた。最後に禍根を残す形にはなったが、相撲を愛し、相撲から愛された人だった。

◆朝潮太郎(あさしお・たろう)1955年(昭30)12月9日生まれ、高知県室戸市出身。本名・長岡末弘。近大を卒業し78年春場所で幕下付け出しで初土俵。同年名古屋場所で新十両、同年九州場所で新入幕。80年夏場所で新三役に昇進し、83年春場所後に大関昇進。85年春場所で初優勝を遂げた。大関在位36場所目の89年春場所途中で引退。年寄山響襲名後、90年から年寄若松として若松部屋の師匠を務めた後、02年2月に部屋合併で高砂部屋師匠に。00年から08年まで日本相撲協会理事を4期務めた。通算成績は564勝382敗33休。幕内と幕下で優勝各1回。歴代4位タイの三賞14回(殊勲賞10回、敢闘賞3回、技能賞1回)獲得で金星は5個。