横綱との深い絆が命綱になった。尊富士は春場所14日目の朝乃山戦で右足靱帯(じんたい)を損傷した。自力で歩けず、当初は千秋楽の出場をあきらめた。ところが、照ノ富士の「お前ならやれる」との言葉を聞くと、まるでスイッチが入ったように「自分で歩けるようになった」という。

照ノ富士との出会いは青森にいた幼少期。師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)の故郷である同県木造町(現・つがる市)で毎年、伊勢ケ浜部屋は夏合宿を開いていた。尊富士は家族の運転する車で駆けつけて交流を深めた。鳥取城北高、日大と歩み相撲界へ入るに当たって、同部屋へ入門したのは照ノ富士からの「俺が強くする」という言葉も大きかった。

両膝のケガで大関から序二段まで陥落し、そこから横綱まで上り詰めた兄弟子を尊敬してやまない。「言葉だけでなく、行動でも示してくれる。それを見て、付いていきたいとの思いだけ。背中を見てきたので目標です」と不撓(ふとう)不屈の姿に憧れ、そして見習ったのが、あの千秋楽だった。

厳しい指導で知られる同部屋。照ノ富士の胸を借りて、泥まみれになる。同世代で上位キラーとして活躍する翠富士、同世代の熱海富士らと時に40~50番以上の相撲を取ってきた。そんな実力者たちとの切磋琢磨(せっさたくま)の日々が110年ぶりの新入幕優勝につながった。「伊勢ケ浜部屋はチームワークでやっているので。また来場所に向けて、みんなで頑張るという思いです」。照ノ富士という、最高の教科書を手本にしながら、24歳は次々と歴史を塗り替えていくに違いない。【平山連】(おわり)