今、戦場となっているウクライナで思い出すのは、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」だ。舞台は20世紀初頭の帝政ロシア下にあったウクライナの小さな村アナテフカ。ユダヤ人の牛乳屋テヴィエと妻、5人の娘たちの家族を主人公にした舞台で、日本では1967年に初演され、森繁久彌、上條恒彦、西田敏行、市村正親が主演してきた。

原作者はロシアの激しい攻撃を受けているウクライナ南部のオデッサ出身のユダヤ人作家ショレム・アレイヘム。

テヴィエたちユダヤ人は、ロシア人から迫害を受けながらも、信仰を心のよりどころに平凡だけれど穏やかに生活していた。しかし、革命前の時代の波が一家に襲い掛かる。ロシア当局から生まれ育ったアナテフカから退去することを命令される。それに抵抗することは圧倒的な武器の力による死につながる。ラスト、テヴィエ一家は散り散りとなる仲間たちとの別れを惜しみながら、わずかな荷物を荷車に積んで親戚を頼って米国に移住していく。過酷な運命にも負けず、ユダヤ人の「宿命」を引き受ける覚悟と、新天地に向けて踏み出す力強さを感じる場面でもある。

40年ほど前にウクライナの首都キエフを旅行したことがある。街の中心を流れるドニエプル川を船で遊覧し、後に世界遺産に登録された聖ソフィア大聖堂も訪れた。現地のガイドに「アナテフカという村はどこにあるんですか」と聞いたら、苦笑された。「日本人観光客によく聞かれるけど、そんな村はないよ。小説上の架空の村です」

今、ウクライナに起こっていることは小説や映画の架空の話ではなく、現実である。ポーランド、ハンガリーなど隣国に避難している人々の姿から「憔悴(しょうすい)」「悲憤」「絶望」、国内に残る夫や息子、父の身を案じる「不安」しか見えてこない。ウクライナを舞台にした映画にソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが主演した70年公開の「ひまわり」がある。第2次世界大戦で行方不明となった夫の生存を信じるイタリア人妻が、激戦の地ウクライナを訪れる。

やっと捜し出した夫はウクライナの女性と新たな生活を送っていた。戦争によって引き裂かれた夫婦の悲哀を描いた名作。ウクライナの国花ひまわりの畑が画面いっぱいに広がるラストが印象的だったが、映画の中で地元の女性が美しいひまわり畑を前に語る言葉に衝撃を受けた。

「このひまわり畑の下には多くの兵士や捕虜たちの死体が埋まっているの」。この映画のロケが行われたヘルソンはロシア軍に制圧されたという。戦争で大きな被害を受けるのは、敵・味方を問わず、いつも普通の人たちだ。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)