渋川清彦(45)は、初の助演男優賞を受賞した壇上で「芳雄さんに報告したいと思います」と、11年に亡くなった原田芳雄さんにささげると語った。授賞式翌日の28日は、原田さんの自宅で毎年、餅つきが行われ、若手を含め、俳優や映画、音楽関係者が集まり、懇親を深めてきた。渋川は「餅つきに毎年参加している」と、餅つきの場で原田さんに報告する意向を示した。

原田さんとの共演で、その後の俳優人生に大きな影響を受けた瞬間があったという。豊田利晃監督の99年の映画「ポルノスター」で俳優デビューした渋川は、同監督の03年「ナイン・ソウルズ」で原田さんと共演し、死ぬシーンを演じた。「芳雄さんが俺の襟首をつかむんですが、その時、スコンと意識がなくなったというか…記憶にない感じになった。酒を飲んだ勢いで『どうなんですかね?』と聞いたら『そんなの、俺だって分かんねぇんだよ(俳優を)今までやってきて』と言ってくださった」。原田さんに教えてもらったことを、自分なりに深く思い、出来るように考えて、やってきた21年の俳優人生だった。

「脚本を見て面白かった。やっぱり、脚本に限る」と、作品の大小を問わず、自らやりたい作品、意義のある作品に出続けてきた。18年は14本、19年は6本の映画に出演。限られた日数でも、複数本の映画の撮影に参加。全く違う役どころを演じる器用さと、せりふを完全に入れて演じきるプロぶりに、多くの監督がほれ込み「今、最も映画監督が使いたい俳優」という異名がついて久しい。

そもそも、俳優になったのも「流れ」からだった。19歳の頃、アルバイトに行く途中の街中で、米国の写真家ナン・ゴールディンに声をかけられた。アラーキーこと、荒木経惟氏と東京・銀座で合同写真展「TOKYO LOVE」を開くゴールディンがモデルを探しており、その縁でモデルを始めた。「人生って、本当に分からない。それがなかったら俺、やってないですよ」。ゴールディンに気に入られ、米ニューヨークに遊びに行った際「KEE(渋川)、帰るな。俳優養成所に通え。金は私が払うから」とまで言われ、その時は勇気が出なかったが結局、俳優になった。

渋川は壇上で「ありがたく思います。すごいドキドキしています。忘年会続きで昼からのお酒…少し酔っぱらっております。こういうところに来ると、飲んだ方が良いのか、飲まない方が良いのか考えてしまい、飲みます。すみません」と照れ笑いを浮かべた。そして「映画は組と言います。チームです。映画が好きで、情熱があって、みんな一生懸命やっている現場なので、ここに立っていると思う」と感謝した。