コメディアン、ぜんじろう(53)が、スタンダップコメディーの普及にまい進している。16年に「日本スタンダップコメディ協会」を立ち上げて副会長を務める。90年代前半に「平成の明石家さんま」としてブレーク、そしてスタンダップコメディーの旗手となるまでの歩みを聞いた。

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2001年(平13)、アメリカでのスタンダップコメディー挑戦から日本に帰国。新たな挑戦として、ロボットと漫才を始めた。M-1グランプリにも挑戦したが、頭がおかしくなったと言われた。

「ロボットと漫才。R-1に出ると、それは漫才だと言われる。漫才のところにいったら、それ、ピン芸やと言われる。そんなことになって、それも本当に作ろうと思ったんですけど、頭破裂して終わりです(笑い)。難しいですよね。アドリブを言うロボットとか。日本語が、めちゃくちゃなのに気づくんですよ。ソフトバンクの人型ロボットペッパー君との仕事が、直接来たんですよ。そして一緒にしゃべったんですよ。それで『駄目だ、これは』って。『ぜんじろうさん、そういうこと言うから商売にならないんです。そのあたりは、黙っていただいて、お金をもらって』と。正直なのかな、僕は。いや、分かるけど、ペッパー、多分、駄目やと思いますよと。やっぱり駄目だったでしょ(笑い)。日本語自体が、しっかりした主語がなくても話せちゃうでしょ。忖度(そんたく)してしゃべっている言葉、パブリックでしゃべる言葉と状況が多すぎるんですよね。ロボットが人間の忖度を理解するのは無理」

悪戦苦闘しながらロボットと漫才を続けた。2011年(平23)まで。

「ロボット業界の中でも全然。何してんねんですよ。ロボット業界中でもアウトサイダー。だって、ためにならないって言われた。産業ロボットの開発を進めてる中、何のためにやってるねんて。おもろいから作ってます。おもろいか、おもろくないかという関西の文化の中で“ロボットと漫才するのがぜんじろう”なんですけど。そこは見ずに、ネタがおもろいかおもろくないかだけ。ロボットと漫才することのすごさとかじゃなく、ボケがどうのこうのとかね。ネットとか使うのも、個人放送をやるのもね、“1人フジテレビ”とかもやったけどね」

個人の発想でチャレンジし続けた。その一方で、ネタ番組全盛時代を迎えていた。芸人たちが、テレビ局のディレクターや作家のお仕着せのネタを演じて笑いを取っていた。

「でも、作家さんに付いてもらえてネタを作ってもらっている芸人が、うらやましくもあってね。やってもらえるのはありがたいみたいな。そこにも僕は漏れていた(笑い)」。

【小谷野俊哉】(続く)

◆ぜんじろう 1968年(昭43)1月30日、兵庫県姫路市生まれ。大阪芸大芸術学部デザイン学科中退。87年、上岡龍太郎に入門、吉本興業に所属。88年月亭かなめとの漫才コンビ、かなめ・ぜんじろう結成。同年、今宮子供えびすマンザイ新人コンクールで福笑い大賞。89年(平元)、ABCお笑いグランプリで最優秀新人賞、上方漫才大賞新人奨励賞も、解散してピン芸人に。92年、毎日放送「テレビのツボ」司会でブレーク。95年「超天才・たけしの元気が出るテレビ!!」。98年渡米。01年帰国。170センチ、57キロ。