フジテレビの金光修社長(67)の著書「あの頃、VANとキャロルとハイセイコーと…since1965」(03年)と「東京ビートポップス~音楽も街も人もワクワクしていたあの頃」(10年)が、扶桑社から電子書籍で復刊された。80年代から90年代にかけて「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」などを手掛けて、フジテレビに黄金時代をもたらした“伝説の編成マン”。昨年6月のフジテレビ社長就任以来、初めてスポーツ紙のインタビューに応えて、その思いを明かしてくれた。

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1989年(平元)には「NONFIX」を企画した。報道番組とも、従来のドキュメンタリー番組とも違う手法で「万引き家族」の是枝裕和監督(59)をはじめとする映像作家を見つけた。

「面白いと思ったんですよ。今までのドキュメンタリーがなんか嫌だったから。人間を追いかけるとか、貧しい家のライフドキュメンタリーとか、鶴の写真をとり続けて100年みたいな人間をずっと追いかけるような。それはそれでいいんだけど、ドキュメンタリーってそれだけじゃないから。いろいろなものをやりましたよ。それで、是枝監督も見つけた。テレビで番組を作ったことはなかったけど私のところに来て、(当時フジテレビがあった)河田町の食堂で話を聞いた。大学ノート持ってきて『実は福祉の問題を研究してるんです』って。それで福祉のでドキュメンタリー作りたいと。そして厚生省の役人が自殺したから、それと掛け合わしてやりたいんですみたいな話をしていてスタートした。『しかし…福祉切り捨ての時代に』(91年)という作品で、ギャラクシー賞をもらいました。それから是枝監督に何回も作ってもらって、彼は教育の問題とか公害の問題だとか、割とリベラル系のをやった。すごい才能がありました。私の嫌いな何かずっとカメラを回してて、追っかければ何か生まれるみたいなドキュメンタリーではなく、ちゃんとストーリーがあって、構成があって、狙いがあってというドキュメンタリーを、もうほんとよくできてたものを作っていた」と振り返る。

是枝監督の才能と出会って、新しいテレビの企画が生まれてきた。

「是枝監督と一緒にゴールデンのバラエティーをやりたいと思ってオファーしたんです。『今度、次は一緒にバラエティーやろうよ』って。企画もあったから。セットは図書館で、そういうものをやろうと思ったんだけど『僕、映画をやりたいですから』って。よく覚えてますよ。今でも律義に、映画の報告に来てくれる。うん、素晴らしいね。ドキュメンタリーも、新しい境地を開きましたけどね。最初からドキュメントじゃなくて、映画監督になりたかったんだなと。すぐにはなれないから、ああいうステップを踏んで映画監督になっていったんだろうと思います」

(終わり)

◆金光修(かねみつ・おさむ)1954年(昭29)10月28日、東京・石神井生まれ。78年早大第一文学部を卒業して、西武百貨店入社。83年フジテレビ入社。編成担当として「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」「カルトQ」「ワーズワースの庭で」「バナナチップスラブ」「ラスタとんねるず」などの番組を手掛ける。97年CS放送立ち上げのためジェイ・スカイ・ビーに派遣され、98年に「スカイパーフェクTV!」を立ち上げる。99年BSフジに出向。12年執行役員。13年専務。13年フジ・メディア・ホールディングス(FMH)常務。15年FMH専務。19年FMH社長。21年フジテレビ社長を兼任。