野球解説者の江夏豊氏(71)が16日、阪神の沖縄・宜野座キャンプを訪問し、11日に逝去した野村克也氏を悼んだ。江夏氏は76年に阪神から南海へトレード移籍。監督兼主砲で正捕手だった野村氏とバッテリーを組んだ。「あの人はオレにとって大のつく恩人。オレの野球人生を変えたのはあの人だからね」などとしんみりした様子で思い出を語った。

野村氏が死去した11日もキャンプ取材を続けていた江夏氏が多くのメディアに囲まれ、野村氏について口を開くのはこれが初めてとなった。

「あの人との思い出というのはひと言、ふた言で済ませられるほど簡単なものではない。自分の野球人生を大きく変えたのはあの人。あの人によって野球人生が変わったし自分の考え方も変わった…残念のひと言だよね」

阪神の左腕エースだった江夏氏は南海移籍後、野村氏の発案で救援投手に転身。その結果、通算206勝193セーブをマークすることになった。監督として分業制をいち早く導入した野村氏によって新たなスタイルを確立した。

「南海でお世話になったとき、野村さんは監督兼4番兼正捕手。監督、あるいは4番という立場の人とは対等に話せなかったけど、唯一できるのは正捕手、バッテリーのとき。オレはとことんあの人に食らいついていった。うるさい男やと思ったんじゃないか。あの人の野球観、自分の野球観、その相違もあったし合流点もあったから。激しく言い合いをしたこともあったし、なるほどと教えられることもあった」

江夏氏が「変な意味ではないけどキャッチャーとしては意地の悪い人だった」と表現するのは例えばこういうことだという。

「簡単に言えば、捕手がサインを出す。アウトコースの1球目。真っすぐサインだ。投手はこれを受けてオッケーと投げる。それが気にくわない。そこで考えてこい、と。こっちはそこで考えてたら野球は進まんよ、と。バッテリーというのは信頼関係で結ばれてるわけだから。でもそういうことを要求したね」

のちの広島時代、有名な「江夏の21球」につながった南海での救援転向。江夏氏が虎党だけでなく野球ファンすべてのレジェンドとなった背景には「大恩人」野村氏の存在があった。【編集委員・高原寿夫】