古賀稔彦が最後の三四郎/記者振り返るあの瞬間

  • 90年4月30日付日刊スポーツ紙面

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(47)

日本武道館のスタンドはぎっしり埋まっていた。1990年4月29日、全日本柔道選手権。ファンのお目当ては「平成の三四郎」古賀稔彦だった。日刊スポーツでも「古賀の挑戦」を1週間前から連載するなど、期待は高まっていた。

今や柔道は階級制が当たり前だが、体重無差別の全日本選手権は特別だった。小柄な者が大男を投げて「柔よく剛を制す」のは柔道の醍醐味(だいごみ)。古賀はそれを体現するため、3月の東京予選(3位)を経て大舞台に臨んだ。

古賀が畳に上がる度に、観客は沸いた。声援に後押しされて勝ち進んだ。出場選手中最軽量の76キロで100キロ台を次々と破り、準々決勝では最重量155キロの相手に勝った。準決勝も激しく動き回って108キロの相手を下し、連覇を狙う小川直也との決勝に進んだ。

古賀の人気は圧倒的だった。佐賀から上京し、東京の私塾「講道学舎」で中高6年間を過ごした。武器は兄の元博から伝授された一本背負い。世田谷学園高時代は体重無差別の団体戦でファンを魅了した。ヒザを畳につかず立ったまま投げるから、相手校の巨漢選手はきれいな弧を描いた。

前年の世界選手権で95キロ超級と無差別級の2冠を制した小川。85年の山下泰裕と斉藤仁以来の世界王者同士の「日本一決定戦」だった。85年は「どちらが勝つか」というヒリヒリした緊迫感だったが、この時はワクワク感だったような気がする。観客のほとんどは古賀を応援。小川には悪いけれど、多くの記者も古賀に期待していたように思う。

もっとも、小川は強かった。169センチ、76キロの古賀は、193センチ、130キロの小川に奥襟をつかまれ動きを封じられた。苦しい体勢から小内刈り、足取り返しと仕掛けるが小川は動じない。7分過ぎ、強引な払い腰をこらえた直後、足車で宙を舞った。「武道館の天井は初めて見た」。畳の上に大の字になった古賀の目に涙があふれた。

史上最軽量での決勝進出は小川の連覇以上にたたえられたが、古賀の気持ちは違った。「小川は勝利への執着心があった。自分はどこか挑戦する気持ち。絶対に勝つという信念がなければ勝てない」。この思いがあったから、2年後のバルセロナ・オリンピック(五輪)で左ヒザを負傷しながら金メダルを獲得する奇跡を起こせたのだ。

1948年からの全日本選手権で、最軽量優勝者は79キロの岡野功。64年東京五輪中量級(80キロ以下)を制した後、67年と69年に全日本で優勝して「昭和の三四郎」と呼ばれた。実は、古賀の兄元博の一本背負いは岡野直伝。「平成の三四郎」の必殺技は「昭和の三四郎」譲りだった。

岡野は古賀の力を評価しながらも「今の中軽量級選手が全日本で優勝することは無理」と話した。「自分は無差別に専念し、大きな相手を倒す技を磨いた。今は階級制が進み、技を作る時間がない」。古賀の4年後、78キロ級の吉田秀彦が準優勝したが、それ以来80キロ以下の決勝進出はない。

2010年まで世界選手権は隔年開催で、古賀や吉田は「世界」がない年に挑戦できた。08年からのランキング制度で階級制の試合が増え、下半身の攻撃が制限されて小柄な選手が勝つチャンスも少なくなった。古賀は「三四郎は平成で終わり。令和には出ない」と言った。小柄な選手が大男を投げる柔道のロマン「柔よく剛を制す」は、あの日の古賀が最後だったのかもしれない。【荻島弘一】