【カープ週間②津田恒実さんを悼む】この躍動感 いつまでも記憶に残る「炎のストッパー」

「プロ野球選手って、すごいなぁ」と初めて思わせてくれた津田恒実投手。幼心に、人生のはかなさを教えてくれた方でもありました。亡くなって19年後の2012年、野球殿堂入り。命日に行われた球宴第1戦で、表彰式が行われました。代わって出席した晃代夫人を見た巨人原監督は、しんみりと「これだけで、今年オールスターを行った意味がある」。しのぎを削ったライバルに届くよう、いつまでも拍手を送っていました。(1993年7月21日掲載。所属、年齢などは当時)

傑作選

吉川学

◆津田恒実(つだ・つねみ)1960年(昭35)8月1日、山口県生まれ。南陽工(山口)で78年春夏甲子園出場。協和発酵を経て81年ドラフト1位で広島入団。1年目の82年に11勝6敗で新人王。86年から抑えに転向し22セーブで5度目の優勝に貢献、カムバック賞を受賞。89年に12勝5敗28セーブで最優秀救援投手。150キロを超える直球で「炎のストッパー」と呼ばれた。通算成績は286試合、49勝41敗90セーブ、防御率3・31。91年に体調の悪化で引退。93年7月20日、脳腫瘍のため32歳で逝去した。12年、野球殿堂入り。現役時代は181センチ、79キロ。右投げ右打ち。

リハビリ中、津田氏がいつも握りしめていたボール。「一球入魂」とある=2010年8月

リハビリ中、津田氏がいつも握りしめていたボール。「一球入魂」とある=2010年8月

1982年(昭57)の新人王で、名ストッパーとして活躍した元広島投手の津田恒美(つだ・つねみ)さんが20日午後2時45分、脳腫瘍(しゅよう)のため福岡市中央区の済生会福岡総合病院で死去した。32歳。くしくも、津田さんが5回も出場し快速球を披露したオールスター第1戦の当日、2年余りの長い闘病生活にピリオドを打った。プロ通算生活10年間で49勝41敗90セーブ。早すぎる死に球宴会場の東京ドームは関係者が驚きとともに、深い悲しみに包まれた。

【悼む】あの夏、記者は津田さんと同じ舞台にいた。

1978年(昭53)8月。センバツから注目されていた南陽工のエースだった津田さん。私は島根県の無名校・三刀屋のエースとしての出場だった。開会式前日のリハーサルで、津田さんは私たちの横に並んでいた。カメラを手にした女子学生たちが群がってくる。「ツダさ〜ん」と黄色い声が飛び交い、パチパチとシャッターが切られる。その途端、津田さんはしゃがみ込んだ。

南陽工時代のフォーム。福井商戦の貴重な1枚=1978年4月3日

南陽工時代のフォーム。福井商戦の貴重な1枚=1978年4月3日

うつむいて写真を撮られないようにした。あまりのモテモテぶりをうらやましく思っていた私などには、いぶかしく思える行動だった。

純朴な青年だった。それは、その夏の日米野球に一緒に選抜された木戸(阪神)ら、だれに聞いても同じ言葉が返ってきた。憎めない愉快な男だったという。

それから8年余り。今度は記者として見た津田さんの球は速かった。

甲子園での阪神戦。あのバースを空振り三振。女房役を務めた道原裕幸現二軍バッテリーコーチは、津田さんの速球は構えたミットのシンで捕れなかったという。ミットの指先の部分に、ボールの衝撃を受けた。球が伸びるから、捕球部分がズレたのだ。

うなりをあげた速球、そして、マウンド上で躍動する姿も忘れられない。だが、私の脳裏に焼き付いているのは、15年前、恥ずかしそうにしゃがみ込んだ少年の姿である。合掌。

19年後 北別府学氏と殿堂入り

「炎のストッパー」が殿堂入りした。球界の功労者をたたえる野球殿堂入りが13日、野球体育博物館で発表され、競技者表彰のプレーヤー部門で、脳腫瘍のため93年に32歳の若さで他界した故津田恒実氏が選ばれた。広島の抑え投手として活躍した津田氏は、闘志あふれる投球でファンを魅了した。津田氏のチームメートで、通算213勝を挙げた北別府学氏(54)も同時に選出された。津田氏の19度目の命日にあたる7月20日の球宴第1戦(京セラドーム大阪)の試合前、表彰式が行われる。

殿堂入り表彰を終え、記念撮影を行う左から北別府学氏、古葉竹識氏、津田恒実氏長男大毅さん、津田恒実氏夫人の晃代さん、山本浩二氏。広島東洋カープの歴史が詰まった1枚。古葉氏は21年11月12日、85歳で死去した=2012年1月13日

殿堂入り表彰を終え、記念撮影を行う左から北別府学氏、古葉竹識氏、津田恒実氏長男大毅さん、津田恒実氏夫人の晃代さん、山本浩二氏。広島東洋カープの歴史が詰まった1枚。古葉氏は21年11月12日、85歳で死去した=2012年1月13日

反応を想像してみると、天国で控えめに喜ぶ夫の顔が浮かんだ。津田氏の晃代夫人(48)は「一番驚いているのは津田本人だと思う。主人はきっと『自分なんかが』と恐縮していると思います」と、本人の思いを代弁した。

予想していなかった殿堂入り。熊本に住む夫人は、山口県にある墓前への報告をする暇もなく、上京してきたという。「北別府さんと一緒に選ばれ、本人は感慨深く受け止めていると思います」と、深々と頭を下げた。

確かに選手として輝いた時間は短かった。通算成績は49勝41敗90セーブと、突出した成績を残したわけでもない。しかし、その生きざまは、死後19年がたった今も多くの人の胸に深く刻まれている。

1年目に新人王を獲得。その後は数々の故障に悩まされたが、利き手の右手中指の血行障害などを克服。86年に抑えに転向すると「炎のストッパー」と呼ばれ、直球1本でライバル球団の主砲と名勝負を繰り広げた。

優勝を決めマウンドでジャンプして喜ぶ津田と、ベンチを飛び出す北別府(右端)ら広島の選手たち=1986年10月12日

優勝を決めマウンドでジャンプして喜ぶ津田と、ベンチを飛び出す北別府(右端)ら広島の選手たち=1986年10月12日

チームメートとして、また監督として同じユニホームを着た山本浩二氏は「ホップするストレートが目に焼きついている」と、剛速球を思い浮かべた。

選手として全盛期を迎えた津田氏を、病魔が襲ったのは91年だった。

体調に異変を感じながら迎えたシーズン開幕直後の巨人戦が、最後のマウンドとなった。当時、監督になっていた山本氏は「頭痛を我慢して登板した最後の試合は、ホップするはずの直球が沈んでいた」と、寂しそうに振り返った。

翌日の検査で悪性の脳腫瘍が見つかり、93年に帰らぬ人に。山本氏は「入院した年は『ツネのために頑張ろうじゃないか』と、みんなの気持ちが1つになった。あの年の優勝は津田恒実のおかげ」と感謝した。

1991年の山本監督と津田。体調を崩し入院。「津田のために」を合言葉にリーグ優勝した

1991年の山本監督と津田。体調を崩し入院。「津田のために」を合言葉にリーグ優勝した

マウンドでの闘争心あふれる姿からは想像できないほど、家では優しい父親だった。リリーフに失敗した日も、絶対に家庭に仕事を持ち込むことはなかった。

晃代夫人は「家族にあたったり、不機嫌になったりすることはなかった。ガッツをむき出しにしてマウンドで投げている姿は、主人じゃないような気持ちでテレビを見ていました。切り替えは大変だったと思いますし、それが主人の強さだったんだと思います」。強い心で、太くて短い野球人生を駆け抜けた。

元気であれば、記憶だけではなく、記録にも残る名ストッパーとして語り継がれるはずだった。入団時の広島監督だった古葉竹識氏(東京国際大監督)は「野球選手として、これからという時だった。最低でもまだ7、8年は抑え投手として活躍できたと思う。記録的にも、もっと評価される投手になっていたはず」と、夢半ばで球界を去った才能を、あらためて惜しんでいた。