【若生正広監督を悼む】「あの監督じゃないと続けていなかった」―ダルビッシュ有に言わせる包容力

写真が、その関係性を雄弁に物語っています。逸材が東北高校に入学する前、職員会議でいじめに遭っていた過去を説明。「守ってあげないと」と力説した話は有名です。人間性までひっくるめて長所を伸ばす指導と、結果を両立させたパイオニアの評伝です。(2021年7月28日掲載。所属、年齢などは当時)

高校野球

保坂淑子

◆若生正広(わこう・まさひろ)1950年(昭25)9月17日生まれ、宮城県仙台市生まれ。68年、東北(宮城)3年時、夏の甲子園に主将でエースとして出場。法大、社会人野球チャイルドでプレーした後、埼玉栄の監督を経て93年秋から母校の監督に。春5回、夏2回甲子園に導き03年夏は準優勝。嶋重宣、高井雄平、ダルビッシュ有らスケールの大きい選手を輩出した。04年に退任し05年から九州国際大付(福岡)で監督を務め、11年センバツ準優勝。15年から埼玉栄の監督、19年から総監督。20年春に退任した。2021年7月27日朝、宮城・仙台市内の自宅で肝細胞がんのため死去。70歳だった。

ユニホームの乱れを直してもらう=2003年3月25日

ユニホームの乱れを直してもらう=2003年3月25日

【悼む】「奥さんと旅行したいなぁ」夢叶うも旅先で体調崩し…

「元気にしてんのか?」。甲子園での再会も、たまにかかってくる電話も。いつも第一声は、こちらの体を気遣う優しい言葉だった。

東北、九州国際大付などで33年も選手の育成に人生を注いできた若生監督。ヤクルト雄平には「いい子すぎるんだよ」と優しくほほ笑み、ダルビッシュの入学時には、幼少時に受けたいじめに心を痛めた。厳しい指導で知られるが、野球を離れると、常に選手の体と心を気遣う優しさにあふれていた。

教え子に囲まれ。穏やかな顔=2020年6月

教え子に囲まれ。穏やかな顔=2020年6月

20年3月に埼玉栄の総監督を退任し、家族が住む故郷・仙台に移り、療養を続けていた。そこで献身的に看病を続けていたのが、妻の正子さんだった。

昨年、仙台を訪ねた時には「なぁヨシネー、うちの奥さん、いい人でしょ? かわいいでしょ?」と、照れくさそうに話してくれた。そして、人生でやり残したことに「奥さんと旅行がしたいなぁ」とつぶやいた。

今年6月、一時体調が回復し、福岡へ旅行を兼ねて教え子の野球を見に行ったと聞いた。夢が1つかなったのだとうれしくなった。しかし、その旅先で体調を崩し入院。仙台に戻り治療を続けていた。そして7月27日早朝、正子さんと静かに会話をしながら息を引き取ったという。

選手の育成に命をかけ、愛情を注ぎ続けてきた闘将。最後は奥様の愛情を独り占めして、穏やかに旅立った。若生先生、かっこよすぎるよ。

○…ダルビッシュにとって、若生監督は特別な存在だった。持って生まれたスケールを尊重し、押しつけるような指導はなし。日本ハムに入団後も、喫煙騒動で謹慎処分を受けた際に寮に出向くなど、よき指導者と教え子の関係は続いた。19年に埼玉栄の監督を勇退する時には「明らかに体が弱かった自分を、すごく理解して守ってくれた。高校時の僕のマインドからいくと、あの監督じゃないと多分続けていなかったと思う」と感謝の気持ちを隠さずに話していた。

いつもおおらかに=2004年8月15日

いつもおおらかに=2004年8月15日