1955年(昭30)12月17日、午後1時半に初めて国士舘大学の敷地に足を踏み入れた。もう68年も前のことだ。サッカー部への入部志願者が私を含めて2人しかいなかった。ベテラン教授の「2人じゃサッカー部は作れないだろう。あの2人はバレーボール部に入れよう」との声が聞こえた。目の前は真っ暗。直後に若い先生から「これからです。サッカー部を作りましょう。まずはあの2人から」と提案されて、ベテラン教授は納得してくれた。国士舘のサッカーの歴史が始まった瞬間だ。私の人生もこの2人の教員の会話である程度の道筋が決まったと言っても過言ではない。

サッカーの指導者になるために上京し、国士舘大に入学したわけだから、2人の会話を聞いて「オレの人生はどうなるんだろう」とドキドキしたが、とりあえずは希望通りにサッカー部を創部することになった。何もないところからのスタートで、まずは部員集め。柔道部などの補欠選手らを集めた。ゴールポストもない。近所の鉄工所から鉄の棒を買ったりもらったりして、自作した。練習メニューも自分でつくった。無謀な挑戦だったが、楽しかったし「やってやろう」と意地にもなった。

無からのサッカー部作りには、多くの喜怒哀楽があった。それが今では170人以上の部員と、コーチングスタッフも10人を超える。大学最強と言われた時期もあり、もちろん低迷期もあった。私は常にトップを目指していたし、優勝か準優勝以外は意味がないと思っていた。教え子たちにはとにかく勝つことだけを求めて指導し、体も精神も鍛えた。

サッカー部の管制塔(クラブハウス)や部室には、過去の栄光が飾ってある。大学選手権、総理大臣杯、リーグ戦の優勝、準優勝のトロフィーや賞状、盾、メダルなどだ。その昔、コーチから「3位以下のトロフィーなどはどうしましょうか?」と聞かれたことがある。何にも考えず、当たり前のように「段ボール箱に入れて倉庫にしまっておいて」と指示した。決勝進出以外は意味がないと思っていたからだ。

以来、3位以下の記念品などは目に触れないところに保管していた。というか、隠していた。私のエゴ、勝利を強く求める自分の都合でそうしていた。それほど、決勝まで勝ち進むことにこだわって指導してきた。少なくても私はそのスタンスで指導してきたし、選手やコーチングスタッフもそう考えて追走してくれていると思っていた。

9月10日、日本サッカー協会(JFA)の殿堂入りの掲額式があり、光栄にも私も仲間入りした。式典で司会者からコメントを求められ「今日が私の一番の感動の日です」と答えた。これは紛れもない私の本音である。75年間、サッカーボールを追い、指導者になりたくて進路を決め、脇目を振らずに走ってきたと自負している。サッカーの指導は私の人生そのもの。それが認められたわけだから、当然最高の日に間違いない。

式典の帰りに大学に寄り、国士舘創立者の柴田(徳次郎)先生の銅像に手を合わせ、川崎市の自宅でこれまでのサッカー人生を振り返ってみた。「この栄誉は1000人を超す教え子たちがいたからこそ」との結論に至った。そして、今までの自分のエゴが恥ずかしくなった。サッカー選手にはそれぞれの人生があり、青春をささげた大学時代に、決勝まで進めなかった選手もたくさんいる。3位も8位もそれぞれ、大事な記憶なのだ。そういう学生たちと一緒に汗を流したからこそ、今の私がいるわけだ。

今でも年間100人程度のOBが、大学のグラウンドに来てくれる。「あっ、これオレたちの時に取ったトロフィーです」「オレのはどこだろう?」と、自分たちの時代の痕跡を探しては喜んでくれる。あの姿を目にすると「オレはバカなことを言ったんだな」と強く思うようになった。

殿堂入りの数日後、コーチ陣のリーダーを呼んだ。「クラブハウスの廊下に棚を作ろう。倉庫にしまったトロフィーや賞状など、今まで取ったすべてのものを飾ろう」。練習の合間や終了後に10人のコーチが、1カ月以上もかけてトロフィーや額縁などをきれいに磨いてくれた。トロフィーは200個以上、額縁も100個は超える。他にも多くの記念品があった。

今までは優勝、準優勝のものだけだったが、今は表彰されたすべてのものが「国士舘大楓の杜キャンパス」に飾ってある。トロフィー1つ1つで当時を思い出し、賞状1枚1枚を読んで、感謝の気持ちが込み上がってくる。

長い国士舘大の歴史をともに歩んでくれたすべての人々に感謝の意を伝えたい。ありがとうございました。私の寿命が何年続くか分からないけれど、これからもよろしくお願いいたします。【盧載鎭】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー人生70年 国士舘大理事長 大澤英雄」)