コロナ禍で海外は遠い場所になった。そんなことを思う中、ツイッターで「#海外挑戦」を掲げるサッカークラブを見つけた。そのハッシュタグの主は、東京都2部リーグに所属するHBO東京というクラブ。J1から数えて8部。アマチュアの社会人チームなのに、毎年多くの選手を海外へ送り出している。
■これまで約50人を海外クラブへ
勝つことが第一目的ではなく、選手の海外挑戦をコンセプトにする。選手の移籍を優先していたら、チームは強くならないのでは? 独特なスタイルに興味を持った。コンタクトを取り、都内で練習しているクラブを訪問。代表兼監督の泉規靖さん(50)に話を聞いた。
「クラブのコンセプトとして海外挑戦を打ち出して8年ですが、これまで45~50人くらい送り出しています。去年はコロナで本当に5人くらいしか行かせられませんでしたけど、年平均7~8人はいます」
HBOについて紹介すると、2006年(平18)に現在ポルトガル3部のUDオリヴェイレンセで社長を務める山形伸之さんが創設。1年目に東京都4部リーグで優勝、翌年は3部で優勝と順調にカテゴリーを上げた。前任者から引き継ぎ、10年から泉さんが代表に就任した。ちなみに泉さんは商社に勤める会社員である。
泉さんが代表となり2部を戦ったが、最初の3年で壁にぶち当たった。選手は日々の仕事や私生活に忙しく、練習はもちろん、試合にも思うようにメンバーが集まらなかったという。そのため1部昇格へは足踏みが続いた。
「このクラブは何のために、誰のためにやっているのか? に行き当たった。そこでクラブに選手の目標となる道をつくってあげられる仕組みがあれば、存在価値だとかやりがいがあるんじゃないかという思いになり、海外挑戦というところにたどり着きました」
■OB情報もとに独自のパイプ築く
海外でサッカーがしたい選手を募ったところ、大学を卒業したばかりの選手ら20人ほどが集まったという。HBOで活動しながら、選手は海外進出を目指した。つながりのあった東南アジアを手始めに、留学会社とも提携し、欧州へのパイプを広げた。他にはない売りを持つことで、クラブへの関心とともに人が集まる。さらに海外からOBが再びHBOへ戻ってくることで、うまくサイクルができれば、チームの強化にもつながるという狙いだった(実際、後に1部への昇格も果たした)。
最初に渡航した選手たちが先駆者となり、現地の情報網を広げ、後から来る者の手助けをした。そんな地道な努力が実り、今や留学会社などの第三者を介さず、独自のパイプで選手を送り出せるようになった。欧州ではポルトガル、ドイツ、オーストリア、オランダ、スペイン、マルタ、モンテネグロなど。アジアではタイ、ラオス、フィリピン、モンゴル、そしてオセアニアではオーストラリアと多岐に渡る。カテゴリーもプロからセミプロ、アマチュアとさまざまだ。あらためて強調するが、HBOはアマの社会人チームであり、運営会社もない。すべて自前で活動してのことだけに驚かされる。
■共通点は「悔しい思いした選手」
HBOの門をたたく者に共通することは、野心あふれる若者ばかり。大学のサッカー部出身者で言えば、Aチームに入れず、悔しい思いをしてきた選手が多いのだという。
「日体大から来た子がいました。Aチームには行けなかったけど特長を持っている。運動量があったり、ガッツがあったり、闘えるとか。そんなBとかCで眠っていた子たちが、逆に海外で当たる可能性がある。この日体大の選手なんかはそうでした。モンゴルに行ってチームを1部リーグ優勝に導きました。ただ、海外でサッカーを自由にやるのは25歳までと決めていて、その後は体育の先生になると決めていた。モンゴルで2年やって、スパッとやめた。今は高校で体育の先生です。大卒でそのまま先生になるより、モンゴルでサッカーをやっていた日々が、今の体育の先生としての価値を高めている、子どもに伝えられるって、本人は自負しています」
■異国の言語、文化に人は磨かれる
サッカー選手を作り出すことに主眼は置いておらず、むしろ選手のセカンドキャリアを考えている。泉さんは「当初とは異なり、やっているうちに自分の考え方も変わってきた」と言う。選手は海外へ行く前と帰国後で人が変わる。その「ビフォー、アフターの成長ぶりを見るのが楽しみ」なのだという。現地で言葉を学び、コミュニティーに溶け込み、異国の文化に触れることで、心も考え方も磨かれるのだという。
「私も40歳を過ぎてから仕事の出張で、ベトナムの工場などに頻繁に行くようになりましたけど、経験を積んで何の不自由もなくいろんなことができるようになりました。40すぎても、成長してるじゃないかって思います。現地の人と一緒にごはんを食べながらいろんな話が聞けるし、非常に楽しい。それを自分自身が感じている。海外で経験することって財産だと思います。今のグローバル社会にあって、英語を話すのも当たり前になっていますし、HBOというクラブは、最初のツールはサッカーというだけであって、サッカーをしに行くプラス、人としての成長も見込める。だから日本を飛び出すのは若い方がいい」
では、実際に選手たちはどう考えているのか。これから欧州へ飛び立とうとしている「ビフォー」選手と、海外経験を積み帰国した「アフター」選手にそれぞれ話を聞いた。
■日本一の青森山田で登録入りも…
「ビフォー」は、静岡県出身のFW留盛聖大(とめもり・しょうだい)選手、20歳。清水エスパルスのジュニアユースから高校サッカー界の超名門、青森山田高へ進んだ。3年時の18年度、チームは全国高校選手権で優勝。留盛選手は登録メンバーには入ったが、ベンチ入りはかなわず仲間の姿を外から見守った。
「東京にある大学でサッカー部に1年間入りました。ただ、本当は高校を卒業したら海外へ行きたかった。海外でプロになるのが目標だったので、そのためにどう目標から逆算するのがいいのか、どういうルートがいいのか、を考えた。やっぱりヨーロッパはサッカーのもとであり、僕には憧れ。でも憧れで終わるのでなく、そこを目標にして到達したいと思いました」
夢はでっかく、UEFAチャンピオンズリーグに出場することだ。1月にはポルトガルへ3週間の短期留学を経験し、今夏にポルトガル4部のクラブへの加入が決まっている。上背はないが、がっちりした体格。サイドから中央へのカットインを持ち味とする。
「27歳にはチャンピオンズリーグに出て点を取るという目標があります。今の道のりでは厳しいのは分かっているので、ポルトガルへ渡ったら結果を残していくしかない」
今は語学の勉強も行いながら、今夏の渡航に向けてコンディションを整える毎日。不安はないのだろうか。
「海外でやるってことは半端な気持ちじゃできない。1年、1年というより、1年より短い時間かもしれません。ただ、今は不安よりもワクワク感の方が大きいです。サッカー人生は短いので、チャンスをつかみに飛び込んでいこうと思います」
そう言うと、にっこり笑った。野心の塊のような20歳である。
■関東学院大卒業後、世界が見たい
「アフター」は、31歳になるDF日野健人選手。神奈川県出身。中学時代は技巧派クラブのエスポルチ藤沢に所属し、高校は三重の名門・四日市中央工へ越境入学。3年時には全国選手権でベスト8に入った。関東学院大へ進み、関東2部リーグでプレーした。サイドバックやMFをこなすポリバレントな選手だ。
「HBOが海外挑戦を目指すクラブへ切り替えた時の1期生です。もともと中学時代にアルゼンチンに留学したこともあり、海外を身近に感じていました。大学時代に就職活動もしましたが、やっぱり広い世界を見たいなと思いました。そのためにサッカーを使って、海外へ行こうと思ったのが始まりです」
HBOに1年在籍した後、オーストリアの8部クラブに入った。8部とはいえ、その年の昇格を掲げていたクラブは、外国人選手を高待遇で探していた。家と食事が付き、給料まで出たという。「そもそもどこでも良かった。ただ下部リーグでできたのは、とてもいい経験でした。その地域とつながり、町の人も応援に来てくれました」。
その後、モンテネグロ2部、オーストリア5部と渡り歩き、再びモンテネグロ2部へ。FKコムで2部優勝を果たし、1部へ昇格。しかも1部リーグをレギュラーとして戦い、その年の前半戦は上位に絡むほどの好調。4位以内に入れば、夢のヨーロッパリーグへ進出できる。そんな矢先、自身は足を骨折して戦線離脱、チームも後半戦に失速。欧州カップ戦進出という夢はかなわなかった。
「向こうの選手は体が強く、グラウンドもあまりよくないので、日本のテクニカルな部分はあまり発揮できない。その中でどう自分のサッカーを出すか。本当に最初は苦労しました。チームメートとコミュニケーションを重ね、常に自分は裏に走ってボールを要求し、出てきたボールからアシストする。信頼を得ながら自分の形をつくっていく、そういう作業がかなり面白かった」
5年に及んだ欧州での生活。独学でセルビア語が話せるようになったことで、貴重な経験を得られたという。陸続きの欧州だけに、どこでエージェントが見ているか分からない。実際、ドイツ2部やオランダ1部クラブへの練習参加の話もあったという。
「サッカーってある部分まで行くと慣れでやれる。プレシーズン戦で欧州のカップ戦に出るようなセルビアの強豪チームと対戦したら、1-1で引き分けることができた。トラップ1つズレたら、やられる。そんな中でサッカーができたのはおもしろかったし、最高の思い出。自分がやれることも分かった。小国でも、やっていく中でチャンピオンズリーグやヨーロッパリーグが手の届くところにあることを知った。こっちへ来なかったら分からなかったことがいっぱいある。自分が味わえたものを、日本でも伝えたい」
帰国後はアパレル会社に勤める傍ら、教育にも関心を持ち、仲間とサッカースクールを立ち上げ、子どもたちの指導もする。同時にHBOでは主将として現役選手生活も続けている。
「サッカーというツールを通して世界へ飛び出し、さまざまなことを学びました。僕は良くも悪くも、我慢しないで思うことを言っちゃう。好きに生きた方が人生は楽しいと思う。ただ、みんなそうできるわけではない。そういう中で自分の居場所をどう作り出すかが大事。話すタイミング1つ取っても、物事を考えるようになりました」
異国での私生活など話題は尽きない。それだけ実りのある経験をしたということなのだろう。
■未来につながる学びや縁、経験
サッカーには夢がある。それは選手としての成功を指すものばかりではない。さまざまな副産物が付いてくるという意味で、そう思っている。未来につながる学びであったり、縁であったり、経験談であったり。人生は思い通りにいかないからこそ、行き詰まれば新たな回路が生まれ、そこから違った生き方がまた見えてくる。そういうものだ。
「日野のように海外へ行って、帰ってきた選手の姿を見ているから、いろんなことが言える。サッカーがうまくいかなくたって、その経験が社会に出た時にプラスになるはず」と泉さん。#海外挑戦、というコンセプトが胸に響いた。
【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)