「Be Pirates(海賊になれ!)」
仲間との絆を持って、活気に満ちあふれ、勇敢に立ち向かっていく。全国高校サッカー選手権で準優勝に輝いた近江(滋賀)の戦いは見事だった。
狭い局地戦に持ち込み、前へ前へと仕掛ける動きが重なっていく。ドリブル、パス、第3の動き。周囲の状況を素早く判断し、一体となって戦う。泥臭さと洗練された戦術眼がうまくかみ合っていた。
そのピッチ内で披露した「ビー・パイレーツ」とは別に、そのスローガンにはもう1つ、監督・前田高孝の実体験に基づく人生訓が込められている。
「プロを目指す者もいれば、サッカーをやめて違う人生を歩む者もいる。何か自分で熱中するものを見つけ、それに向かっていく男であってほしい」
その人生は挑戦の連続だ。
■清水で2年間在籍も出場ゼロ
滋賀・草津東高から練習生から清水エスパルスに入団した。だがFWとして2年間で公式戦の出場はゼロ。あっけなく契約を切られた。海外に活躍の場を求めた。トライアウトに落ち続けた。サッカーが嫌いになった時、ルーマニアでのトライアル中に膝の大けがを負った。
「これでサッカーを辞められる」と安堵(あんど)した。22歳の時だった。
人生をリセットするため受験勉強を経て関西学院大へ進学した。社会起業を学ぶためだった。
世界の現状を知りたかった。ドレッドヘアのバックパッカーとしてベトナム、タイ、インドなどさまざまな国を放浪。タイでは孤児院を訪れ、子どもたちとの触れ合った。決別していたサッカーに戻るきっかけとなった。
「はだしで石ころだらけで一緒にはだしになってやった。また一つ自分の中で自由になった。サッカーをやっていた時はしがらみとか多かったので。自由になれたなという感覚があった」
子供の頃にサッカーが楽しかった原点を思い出させてくれた。その恩返しとして、その孤児院にグラウンドを造るプロジェクトを起こした。資金作りのためにサッカースクールを開始した。大学でのビジネスコンペに企画を申請したところ、評価されて助成金も受けられた。これらの資金を手に1年後、本当にグラウンドを完成させている。
■ホームレス日本代表コーチに就任
貧困問題に関心を持ち、大阪・西成で1人でフィールドワークを実践した。「リアル・カオスだった」。児童養護施設で働いた。
路上生活者を支援する新聞「ビッグイシュー」を通じ、ホームレスのサッカーW杯を知る。路上生活者に声をかけてメンバーを集め日本代表「野武士ジャパン」のコーチとなった。
「いい経験というか、おもしろかったというか。それが今に生きているかは分からないですけど、いろんな立場の方がいる。広くいろんなことを知らないといけないなと」
ボランティア活動、外部でのサッカー指導とともに、関学大サッカー部でもコーチとしても活動した。
当時の在学生で、徳島ヴォルティスに所属した元Jリーガーの井筒陸也さんはこう回想する。
「学生にも分け隔てなくフラットに接してくれた。偉そうな物言いはしない人でした。普段はふざけていても、やる時はめちゃくちゃこだわってやる。いいものはいい、悪いものは悪いと。Aチームの監督と意見がぶつかり、一触即発になったこともありました。薄っぺらい技術や戦術論を語るようなことはせず、サッカーの本質に迫ろうとしていた。そんな覚えがありますね」
■近江でのスタート時は部員4人
14年に関学大を離れ、欧州を旅している時に近江からのオファーが舞い込んだ。
「いい選手がそろい自分でなくても勝てるチームでなく、ゼロからチームをつくりたい」
新たな挑戦の始まりだった。
15年に近江の監督に就任した。当時10人だった部員は翌年から強化クラブとなることに伴い、授業のコマ数が多い特進クラスの6人は退部した。「残ってくれた4人は思い出深い。今でも連絡をくれます」。そこから足掛け9年。地道な強化の積み重ねが実を結び、全国の頂点を争うファイナルを戦うまでに成長した。
高校生たちにはさまざまな言葉をかけた。
「人事を尽くして天命を待つ」
「できる、できないかじゃない、男ならやるか、やらないか」
「自分で自分に期待しろ」
「1パーセントの幸せのために、99パーセントの苦労がある」
「現状維持は後退の始まり」
主将の金山耀大(3年)は監督の言葉に感銘を受けた1人だ。
「心を動かす言葉を毎日言ってくれた。これからの人生の財産になるものばかり。1つに絞るのはムズいですね。自分はこうだ、というものを持っていきていきたい」と話した。
前田監督はサッカー指導を通じて、多くの人生訓をさりげなく与えていた。
「挑戦は楽しいですからね。子どもたちにもそれを知ってほしい」
人生に形なんてない、枠にはまるな、何度でも立ち上がれ、と。
型破りな男の思いはどこまでも真っすぐだ。だからこそ、その言葉は心に響く。【佐藤隆志】