FC琉球が、MF中川風希(23)の先制弾を含む2ゴールなどでザスパクサツ群馬に圧勝し、2003年(平15)の創設から15年で、初のJ3優勝と悲願のJ2昇格を決めた。

FC琉球の15年は、創設から紆余(うよ)曲折の連続、波瀾(はらん)万丈の歴史だ。2002年(平14)12月に、当時テクニカルディレクターを務めていたラモス瑠偉氏(現ビーチサッカー日本代表監督)の解任などをめぐって混乱した、九州リーグ沖縄かりゆしFC(10年に解散)を集団で退団した選手らにより、翌03年2月に結成された。沖縄県3部リーグに参戦し、同6月に沖縄県社会人サッカー選手権で優勝して初のタイトルをつかむと、3部でも優勝した。

2004年(平16)2月には、3万人の署名を受けた沖縄県サッカー協会社会人連盟の推薦で、沖縄県1部リーグに特別参入。元日本代表で、東京ヴェルディの前身・読売クラブの監督などを歴任した与那城(よなしろ)ジョージ氏(現九州リーグJ・FC MIYAZAKI監督)を招聘(しょうへい)した。同8月には天皇杯沖縄県予選準決勝で因縁の沖縄かりゆしFCを破るなどして天皇杯沖縄県代表になり3回戦に進出。1部リーグでも優勝し、翌05年には九州リーグに参戦。同6月にMF永井秀樹(現東京Vユース監督)を獲得するなどし、2位で全国地域サッカーリーグ決勝大会に出場し優勝。沖縄県のクラブとして初の全国リーグへの参戦となる、日本フットボールリーグ(JFL)参入が認められた。

そこからが、いばらの道だった。07年のJFLは降格圏の17位に沈んだが、ロッソ熊本(現ロアッソ熊本)とFC岐阜の2チームがJ2に昇格に加え、アローズ北陸とYKK APが合併し、翌08年からカターレ富山としての参戦が決まったため、レギュレーションの変更で辛うじて残留した。

同年12月にはJリーグ昇格を目指し、02年ワールドカップ日韓大会日本代表監督のフィリップ・トルシエ氏を総監督、ジャン・ポール・ラビエ監督に招聘(しょうへい)。さらに元日本代表FW山下芳輝(現サッカー指導者)など大型補強を敢行し、08年は「トルシエ革命元年」をうたったが、16位と低迷。その上、Jリーグ準加盟の申請を初めて行ったが、施設の不備などで認められなかった。翌09年には初代監督の新里裕之コーチが監督に復帰も、再び16位に終わった。16位は入れ替え戦圏内だったが、07年同様、08、09年と3季連続でレギュレーションの変更で生き残った。

10年も10位、11、12年は9位と順位は振るわなかった。11年にはJリーグへ2度目の準加盟を申請したが、またしても承認を見送られた。そして13年に、翌14年に創設されるJ3への参入を目指しJリーグへ3度目の準加盟を申請。同8月には、準加盟承認への課題とされた沖縄県内のスポンサー確保、財務体質の改善に向け、現在の運営会社である琉球フットボールクラブ株式会社を設立し、2度目の運営会社の移管を行った。そして同9月にJリーグへの準加盟が認めらた。

J3参戦初年度の14、15年は9位と順位は平行線をたどる中、毎年、選手の大量入れ替えが続いた。

その中で、16年に下部組織のジュニアユースの監督だった金鍾成監督(54)がトップチームの監督に昇格した。それまでは、11年に加入し14年にカマタマーレ讃岐に移籍した元日本代表FW我那覇和樹や、15年に加入し、同年に引退した元ガンバ大阪FW中山悟志ら過去に実績のある選手を軸にチーム作りをしてきた。それを16年に若手主体に転換。同年に藤枝MY FCから加入したGK朴一圭(28)が、今季は主将となりチームをけん引した。

さらに今季は、若手中心のチームに、J2に降格した大宮アルディージャから加入した、元日本代表FW播戸竜二ら即戦力が加わりチーム力が向上した。その中で、国学院久我山高(東京)を13年に卒業後、スペインのウラカン・バレンシアでの武者修行をへて15年に加入後、3シーズンでリーグ戦6得点だったFW富樫佑太(22)が、群馬戦の後半4分のゴールを含め、得点ランク2位の16得点と覚醒。「3対1で勝つサッカー」を目指した金監督が鍛え上げた若手主体のチームに、即戦力が融合した琉球は、7月7日の第17節・藤枝MY FC戦で首位に浮上して以降、その座を1度も譲らない独走で、J3史上初の3試合を残しての優勝を成し遂げた。