北海道コンサドーレ札幌の初の国内3大タイトル獲得はならなかった。札幌一筋12年目の道産子主将、MF宮沢裕樹(30)が日刊スポーツに手記を寄せた。

18日セレッソ大阪戦で右太もも裏の肉離れを起こし、決勝の舞台には立てずスタンドから試合を見守った。2度のJ2降格を経験しクラブの低迷期を知る背番号10が、08年の入団当時では想像もできなかった「新しい景色」に感慨を深めた。

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素晴らしい応援をありがとうございました。決勝に出場できなかったのは仕方がない。気持ちを切り替えて、チームを信じて応援していた。僕が入団する前から応援してくれているサポーターも、札幌がこういう舞台で戦うことを想像できなかったと思う。最高の舞台で最高の結果とはいかなかったけど、みんな勝利のために最後まで戦い抜いた。またこのような素晴らしい舞台に戻って来て、次はトロフィーを掲げたい。

僕は、もともとプロに行こうと思っていなかった。苫小牧のトヨタ自動車に行ってサッカーをしながら働きたいと思っていた。年代別代表とかに行くにつれて、やっぱりサッカーをやりたいなって。5クラブから興味を示されていたと聞いたけど、ギリギリまで教えてもらっていなくて。どこにも練習参加したことがなかったけど、札幌は練習試合をしていたし、室蘭大谷(当時)OBがたくさんいて入りやすかった。横浜は1回だけ北海道で行われたキャンプを見に行ったけど…。小さい時に地元の室蘭・入江によく試合で来ていたので、札幌に決めた。

3年目で背番号が10に変わる時に「俺、嫌です」って言った。2年目で11番に変わったばかりというのもあったけど、それに見合った選手じゃないって。でも期待してるって話をされて、それに応えたいって思った。でもサポーターからは「それでも10番か」って言葉を浴びせられたと思う。自分でもいいプレーをできていないって思っていたから、気にしないようにしていた。

基本、あまり欲がなかったから、それが最初のころ、うまくいかなかった要因で、FWとして入団したのに生き残れなかった。「自分が自分が」って感じじゃなかったし、明確な目標を設定していたわけじゃなかったから。高校時代から言われていたこと。年代別代表も「行かないです」って断ったりして。プロで試合に中心として出るようになって、やっぱりチームを勝たせたいとか、J1に行きたい、何とか残せるようになりたいって思うようになって。チームのためにって思うようになった。

移籍を考えたのは、元札幌の石崎(信弘)監督が山形の監督(14~16年)をしていて、オファーが来た時。ちょうど僕も結構長く札幌にいたので、少し環境を変えて自分の刺激にもなるかなって考えもある時期だったので迷った。結局、まだ札幌で成長できると思ったし、やっぱり札幌が好きだったので行かなかった。

チームは成長していて、未来は明るい。自分もそれにずっとしっかりついて行きたいって思う。僕はクラブとしてつらかった時期からやっている。これからも新しい景色を見ていきたいし、導ける選手でありたい。(コンサドーレ札幌MF)