サッカーの元ブラジル代表で母国をFIFAワールドカップ(W杯)で3度の優勝に導いた「王様」ペレさんが29日、サンパウロ市内の病院で亡くなった。82歳だった。

30年以上前にペレさんの単独取材で素晴らしい人間性に触れた荻島弘一記者が、悲しみの中で偉大なキングの死を悼んだ。

   ◇   ◇   ◇

90年W杯イタリア大会のことだ。決勝戦前、ローマの高級ホテルにペレを訪ねた。アポなしだが、最上階のスイートに泊まっていることは分かっていた。ドキドキしながらチャイムを押した。出てきたのはペレ本人。緊張で硬くなった。

小学生のころ、渋谷のデパートの屋上で行われたサイン会以来の「生ペレ」だった。その時はちびっ子ファンの「オーバーヘッドを見せて」のむちゃぶりに少しも嫌な顔をせず、白いスラックスで妙技を見せてくれた。しかし、今度は予期せぬ1対1。笑顔はなく、けげんそうな表情だった。

へたな英語で突然訪問した非礼をわび「できれば取材させてほしい」と申し出た。もちろん、答えは「ノー」だった。「取材には手続きが必要。謝礼ももらわないといけない」。困惑したような表情で言われた。

当然だ。ペレほどのスーパースター。代表がW杯に出場すらしていない日本の記者、それも若造を相手にする時間などない。「失礼しました。ごめんなさい」。引き返す背中に「ちょっと待て」と声をかけられた。

「サッカーは好きか」と聞かれ「大好きです」と答えた。「そうか、じゃあサッカーの話をしよう。記事にするかどうかは、君の勝手だ。私は知らない」。笑顔で、部屋に招き入れてくれた。驚いた。同時に天にも昇る気持ちだった。

リビングルームのソファに座り、ベスト16止まりだったブラジルの敗因、マラドーナ頼みのアルゼンチンへの苦言、マテウス率いるドイツへの期待…。1時間近く話し、最後に2ショット写真まで撮らせてくれた。プレーだけではない。人間性が「キング」なんだと確信した。動悸(どうき)が収まらない帰り道、イタリア入りして1カ月で、ローマの街は一番輝いて見えた。

全盛期のプレーは生で見ていない。選手としては、クライフやストイコビッチが好きだった。ただ、人として最高。「神対応」ならぬ「王様対応」。記者人生の中でも、トップレベルの素晴らしい経験だった。

残念だったのは、勢い込んで書き上げ、写真とともに送った原稿が掲載されなかったこと。今なら「ネットだけでも」だろうが、当時は「ボツ」だ。「悪いなあ、スペースがなかったから」。せっかくのペレの厚意を無駄にしたデスクに怒りを覚えた。サッカーはその程度の扱いだった。記者人生の中でも、トップレベルの悔しい経験だった。

また会うことができたら謝るつもりだった、それがかなわなくなったのが残念でならない。それでも、あの時の優しい笑顔は、ずっと忘れないだろう。ペレは間違いなく「キング」そのものだった。【荻島弘一】