日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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男子100メートルは、陸上競技の「華」と言われる。満員のスタジアムがスタートに合わせて静まり、号砲を待つ。10秒足らずの決戦へ、胸を高ぶらせる。世界大会ではスタート時刻が夜に設定されることが多い。あの夜も、雰囲気は最高だった。

2008年8月6日、北京五輪陸上男子100メートル決勝。同年の5月に世界記録保持者となっていたウサイン・ボルト(ジャマイカ)が、自己記録を0秒03更新する9秒69で金メダルを獲得した。勝利を確信した残り20メートル、ボルトはやや右を向いて走り、右手で胸をたたいてフィニッシュした。

メインスタンドの記者席からも、あの場面ははっきり見えた。記録に驚くと同時に、「なんてもったいないことをしたんだ」との思いが込み上げた。最後まで全力で走り、胸からフィニッシュしていれば、記録はもっとよかったはずなのに…。ボルトはレース後「勝てると分かったときは、それはもうハッピーだった」と、勝利を確信したからこその喜びの表現だったことを明かした。日本ではNHKのハイライト番組で、刈屋アナウンサーがあの場面について「世紀の欽ちゃん走り」と称していた。萩本欽一さんのコミカルな動きに例えられ、話題になった。

同年9月23日、スーパー陸上のゲストでボルトが来日した。日刊スポーツの主催イベントだったこともあり、5分間だけ個別インタビューの機会を得た。ボルトは気さくだった。競技のことはもちろん、当時交際していた彼女のことも教えてくれた。最後にこう聞いた。

「横向きのフィニッシュは、日本のコメディアンに似ていた。知ってました?」

ボルトは「そうなの? 知らなかったよ。それはいいことを聞いた」と言って笑っていた。

2009年8月17日、ベルリンでの世界選手権男子100メートル決勝。ボルトは記録を9秒58まで更新した。今度は最後まで全力でフィニッシュした。勝負に徹した五輪と異なり、記録を狙いにきた。200メートルで樹立した19秒19も含め、まず破られることはないだろう。

2020年4月13日、ボルトはツイッターを更新した。北京五輪100メートルのフィニッシュ時の写真を掲載し、「Social Distancing」と書いた。欽ちゃん走りをする余裕があったくらいだから、後続とは約2メートルの距離があった。ボルトしかつぶやけない一言だった。

東京五輪は延期になった。開催されれば男子100メートル決勝は、2021年8月2日午後10時ごろ。あの空気を多くの人に味わってほしい。ソーシャルディスタンスを気にすることのない、満員の新国立で。【佐々木一郎】