ラグビーの日本代表で主将、監督を務めた神戸製鋼ゼネラルマネジャーの平尾誠二(ひらお・せいじ)氏が、10月20日午前7時16分、胆管細胞がんで死去した。53歳だった。京都・伏見工で全国制覇、同大では史上初の大学選手権3連覇、神戸製鋼では日本選手権7連覇、W杯にも3大会連続で出場した。34歳で日本代表監督に就任し、これまでの常識にはない卓越した理論やカリスマ性を発揮し「ミスター・ラグビー」と呼ばれた。日本で開催する19年W杯を前に、ラグビー界にとって大きな存在を失った。【構成=町野直人】

●13年冬「どないしましたん」と笑顔

 15年秋に行われたW杯ラグビーで日本代表が、大躍進し人気復活を遂げた。再びラグビーが脚光を浴びている。元ラグビー記者としては非常にうれしいことだった。ならばあの「ミスターラグビー」とまで呼ばれた平尾誠二の話が聞きたい、笑顔が見たいなと思っていた。なのに、今年に入り少し映像で見ただけで姿をみせない。どうしているのだろう、と心配していた。

 そんな折の10月20日、突然の訃報に接した。ガク然とした。最後に会ったのを思い出すと13年冬のことだった。神戸ユニバー競技場でトップリーグの神戸製鋼-サントリー戦があり、平尾に会いにいった。

 試合後「ご無沙汰」と言って手を差し出すと、最敬礼して「どないしましたん」と、人なつっこい笑顔をくれた。私も同大卒で、平尾が同大時代に成し遂げた大学選手権3連覇をちょっぴり肩入れしながら取材したのを思い出す。平尾の縦横無尽の活躍が、よく日刊スポーツの1面を飾ったものだ。

 会場のスタンド下でその時の神戸製鋼の現状よりも、同大時代の昔話に花が咲いた。私が先輩なのに平尾がため口で話してくれるのが、妙にうれしかった。取材される側とする側の垣根が取れたように思うからだ。

●頭から突っ込む“率先垂範”タックル

 平尾の顔を思い浮かべてほしい。ゴツゴツしたラガーマンのイメージはなく、“シュッ”としたイケメン。しかし、口ひげを蓄える端正な顔には60針以上縫った傷があるのだ。同大の当時の岡仁詩部長は「(新日鉄釜石の同じスタンドオフの)松尾はタックルいかんけど、ウチの平尾はよくいく」と絶賛していた。平尾には、相手ディフェンスを軽快に抜いていくスラロームステップのイメージがあるが、実は頭から突っ込んでいく“率先垂範”のタックルが真骨頂だったのである。

 中学でラグビーを始めた時にこんな疑問を持った。キックオフは、相手ディフェンス陣が待つ方に蹴っていく。味方もそのサイドから攻める陣形だからだ。「どうして守りのいない方に蹴らないのか」。サインプレーで攻める誰かが、守りのいない方に走って、そこにキックして、そのボールを味方がつかめばうまくいくのでは、というアイデア。平尾は、そんな柔軟な発想の持ち主だった。

●試合前夜は甘いおやつを食べて3連覇

 同大時代、史上初の大学選手権3連覇を果たした。平尾の自由な発想がプレーに生きて、15人がひとつの楕円(だえん)球に集中した結果の偉業であった。同大が、東京遠征した時は、上野の不忍池近くの宿舎だった。試合前夜は私もよくお邪魔したものだ。その時必ず、女子マネジャーが甘いものをおやつに出す。明日が明大なら、明治チョコレート、日体大ならランニング姿で走る姿のイメージから、グリコのキャラメル。日本選手権で新日鉄釜石とやる時は、鉄鋼型のチョコレートが出てきた。それをフィフティーンが食べ尽くすのだ。平尾もにやにやしながら、その験担ぎを楽しんでいた。

 神戸製鋼で初の日本一になった試合も、国立競技場で見ていた。相手は大東大。守りは、少しずつ横にずれながら守るドリフトディフェンスを得意としていた。「それなら、展開せずに、ハーフ団かセンターまでで縦に突き切るだけや」といとも簡単に破った。当時主将だった平尾の単純明快な作戦だった。

●「赤い疾風が駆け抜けた」の書き出し

 34歳で代表監督に就任した。多くの外国籍選手を招集し、当時東芝府中にいたマコーミックを主将に指名した。昨年、南アを撃破した現在の日本代表の礎を、これまでの日本ラグビーの常識にとらわれなかった平尾が作った、と言っても過言ではないだろう。

 平尾の卓越した理論が19年の日本開催W杯で、本当に必要であった。しかし、あれほど強くてかっこいい「ミスターラグビー」が、わずか3年後のW杯を、グラウンドに下りるどころか、見ることすらできないとは…。非情すぎる。残念だ。天国で、いつものしぐさ、アゴに手を当てながらラグビーを見ているのだろうか。

 神戸製鋼の深紅のジャージー姿を思い出す。「赤い疾風が駆け抜けた」という書き出しの原稿を書いたことを思い出す。53歳。平尾の人生もあまりにも早く、疾風のように駆け抜けた。

 ◆平尾誠二(ひらお・せいじ)1963年(昭38)1月21日、京都市生まれ。伏見工3年時に全国大会優勝。同大に進み大八木氏らと82~84年度に大学選手権3連覇。英国留学を経て86年に神戸製鋼へ入社し、日本選手権7連覇に貢献。87、91、95年W杯に出場し日本代表キャップ35。97年から00年まで日本代表監督。神戸製鋼GMなどを務め、胆管細胞がんと闘病中だった16年10月20日に53歳で死去。