浅田真央は21年間の競技生活で何を残し、どう成長してきたのか。今日13日から連載「浅田真央と○○」で、浅田と関係の深い事柄を1つずつ掘り下げる。第1回は代名詞ともいえる技「トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)」。本人のコメント、周囲の証言などをもとに、浅田とトリプルアクセルの関係を探る。

 「ママ、跳べたよ!」。浅田が初めてトリプルアクセルを決めたのは02年、小学校6年生の時に参加した日本スケート連盟主催の野辺山合宿時だった。89年の世界選手権で女子で初めて決めた先駆者伊藤みどりさんに憧れ、何度も映像を見て練習をしていた。この合宿中に、トリプルアクセルを絶対跳ぶと決めていた。降りたのは突然。確かめるように何度も繰り返した。リンクサイドでは母匡子(きょうこ)さんが笑顔で見守っていた。「目標を達成すると、こんなにうれしいんだなと思えた」。自分で決めたことは必ずやる。スケート人生の指針ができた瞬間でもあった。

 初めて出場した07年世界選手権。SPで5位と出遅れ、母から「フリーで2本跳んでみたら」と提案された。母にとっては、当時トリプルアクセル唯一の使い手である真央が誇りだった。だが、浅田は「無理だと思う」と拒否。結局フリーで1本にとどめ銀メダルだった。それから3年後。10年バンクーバー五輪でSP、フリー合わせ、史上初めて3本のトリプルアクセルに成功する。頑固な性格、トリプルアクセルにこだわるのは母譲りだった。

 6種の中で唯一前を向いて踏みきり、半回転多いジャンプ。伊藤みどり氏はその難しさを「スピードが必要で、走り幅跳びのよう。壁に向かって、よし、いくぞという覚悟が必要」と表現する。体が軽かった10代前半の浅田にとってジャンプは「ぐるぐるとした時、キュッとやれば跳べる」楽しいものだったが、大人の体になるにつれ、感覚だけでは跳べない、より難しいものになった。