八村の華々しいNBAデビューの陰には、海外に挑戦する選手を後押しした日本協会の取り組みもあった。東野智弥技術委員長(49)が、その裏舞台を語った。

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長く日本代表の育成に関わってきた東野氏は、4年前のBリーグ創設以前から若手の海外進出をサポートし、国際交流も行ってきた。加えて日本協会の流れとは別に06年、集英社と漫画家の井上雄彦氏による「スラムダンク奨学金」制度も設立。国内に米国へと向かう機運が高まった。

東野氏 八村や渡辺(雄太)と同世代も(同奨学金制度に)いて、2人はそれに刺激された形。富樫(勇樹)や渡辺は高校の時に初めて代表に呼び、世界に通用する選手に育てようという思いがあった。馬場(雄大)は筑波大3年時にNBAに行きたいと言ったが、いったんBリーグで力を付けてから挑戦という形をとった。

さまざまな形で育った選手が集まり“史上最強”となった日本代表は、昨年のW杯アジア2次予選で4連敗からの8連勝で21年ぶり自力出場をつかみ取り、44年ぶり五輪出場につなげた。

東野氏 以前は協会とリーグがバラバラだったそれが男子低迷の原因の1つ。Bリーグができ、協会と一緒になってやってきたことがようやく実り、選択肢が広がった。綱渡りの状態だったが、風が吹いた。

日本協会は扉を開いた八村や渡辺とのつながりを今後の育成に生かそうとしている。東野氏は、八村がいたゴンザガ大に通い、英語が話せず困ったことを聞いた。日本のアンダーカテゴリーの代表には外国人コーチに英語教育も依頼した。さらに講師に渡辺を招いてNBAの魅力を語ってもらい、若い世代が世界に目を向けるよう仕向けた。

東野氏 眠っている逸材はいる。それをうまく引き上げられるか。95年に野茂選手がMLBに挑戦したとき、バスケット界にそんな時代が来るとは思っていなかった。今はワクワクしている。ここからがスタート。彼らには活躍して今後につなげていく必要がある。

日本協会の思いを背負い、日本人初のドラフト1巡目選手がNBAの舞台に立った。八村には、若い選手たちの道しるべとなる使命がある。【松熊洋介】

◆東野智弥(ひがしの・ともや)1970年(昭45)9月9日、石川県生まれ。北陸高校時代は佐古賢一(現日本代表アシスタントコーチ)らと全国大会優勝。早大卒業後アンフィニ東京に入社。引退後米国で指導者の道へ。01年トヨタ自動車アルバルク(現A東京)のアシスタントコーチに就任しリーグ初優勝に導く。04年に日本代表アシスタントコーチ就任。その後解説者、bjリーグ浜松のヘッドコーチなどを経て、16年から日本バスケット協会の技術委員長に就任。

◆スラムダンク奨学金 漫画「スラムダンク」作者の井上雄彦氏と集英社が、単行本累計1億冊到達をきっかけに06年に立ち上げた奨学金制度。日本の高校、高専または専修学校高等課程卒業見込みの希望者から奨学生を選出。米国の大学準備機関であるプレップスクールに派遣し、14カ月間の学費、生活費を援助する。