怪力先生は、力の限りにバーベルを持ち上げた。96年7月22日。「僕の持っているものを全てぶつけてくる」。そう臨んだ夢舞台で記録はトータル287・5キロ(スナッチ125キロ、ジャーク162・5キロ)で15位。95年に故郷の士別東高教諭となり「二足のわらじ」を続けて獲得したアトランタオリンピック(五輪)切符。同競技の北海道勢として68年メキシコ大会八田信之以来28年ぶりの出場だった。

「選ばれたときは信じられなかった」。96年4月5日、代表選考も兼ねたアジア選手権で6位に沈んだ。前年秋の国体でマークした292・5キロの自己記録に遠く及ばなかった。日本代表が確実視された92年バルセロナ大会でも、選考会だった世界ジュニアで3回のジャーク全て失敗して記録なし。悪夢はよみがえった。その4日後。前年11月の世界選手権12位が評価され、初の五輪出場を射止めた。1学年1学級の士別東高の生徒も喜びに沸いた。

五輪後は道内高校で後進の育成に努め、全国覇者3人を送り出した。現在は札幌琴似工で指導をしながら、道高体連専門部委員長として競技の発展に尽くしている。