<プロボクシング:WBA世界ミニマム級タイトルマッチ12回戦>◇24日◇東京・後楽園ホール

 これがボクシングだ!

 WBA世界ミニマム級4位の八重樫東(28=大橋)が、両者759発の壮絶な“ど突き合い”を制して、悲願の王座奪取を成し遂げた。強打者でタフな同級王者ポンサワン・ポープラムック(33=タイ)を、スピードと連打で序盤から圧倒。5回以降は足を止めて真っ向打ち合いを挑み、10回2分38秒、右強打と連打を浴びせてレフェリーストップ勝ちした。07年6月のプロ7戦目での世界初挑戦であごを折られて挫折した元アマエリートが、たくましく成長して世界の頂点に立った。八重樫の戦績は15勝(8KO)2敗となった。

 八重樫の両拳は止まらなかった。10回、ロープ際に王者を追い込み、左フック、右ストレート、左右のボディーを突き刺した。3連打の後、最後は強烈な右。王者が両ひざをグラリとさせて崩れかけた瞬間、レフェリーストップ。同回2分38秒、TKO勝ちした。「相手に巻き込まれた打ち合いでしたが、最後は力強く打てた」。松本好二トレーナー(42)に肩車され、同じく陣営に肩車された大橋秀行会長(46)とリング上で歓喜の声援を浴びた。

 5回から持ち前のフットワークを捨てた。前に出るポンサワンにプレッシャーをかけられ、八重樫は切り替えた。「ここで、あきらめない」。高校、大学を通じ何度も日本の頂点に立ったエリートボクサーが泥臭くど突き合った。ジムの先輩で侍と呼ばれ、パンチの破壊力と精神的な強さで世界王座を奪ったWBC世界スーパーフライ級王者川嶋勝重氏を見習うように、愚直に打ち合った。

 8回には打たれ強い王者を追い込んで連打したが、逆に右カウンターで倒れそうになった。ダウン寸前になったが、耐えた。「あのパンチは効いたけど、我慢した。川嶋さんほどじゃないけど少しは『侍』に近づけたかな」と照れ笑いを浮かべた。

 07年6月、当時のWBC世界ミニマム級王者イーグル京和に挑戦し、バッティングであごを2カ所骨折して判定負けを喫した。わずか再起2戦目で再び判定負けも味わった。10年5月に日本ミニマム級王座の2度目の防衛を成功させた後には腰痛、右肩痛、ヒザ痛に悩まされた。大橋会長から「もうやめろ」と引退勧告まで受けた。それを1度は受け入れたが、すぐに携帯電話で「やらせてください」と直訴した。既に同年10月に結婚する家族と暮らしていた八重樫は「家族は自分がボクシングをやるところをもっと見たいと言ってくれたから続けられた。あきらめなくて良かった」と涙を流した。アマのエリートはどん底に落ちながら、家族に支えられ、はい上がった。そして世界の頂点に立った。

 師匠の大橋会長は早くもWBC世界同級王者井岡一翔(井岡)との統一戦を提案した。同会長は「WBCは私も巻いたベルト。チャンスがあれば、ぜひやりたい」とぶち上げた。夢は広がるばかりだ。「強い相手にも勝てる実力をつけたい」と八重樫。アマのエリートがメンタルの強いプロ魂を身につけて防衛ロードを突き進む。【藤中栄二】<八重樫東アラカルト>

 ◆生まれ、サイズ

 1983年(昭58)2月25日、岩手・北上市生まれ。身長161センチの右ボクサーファイター。

 ◆野球&バスケ

 小学3~6年までは野球を経験しポジションは捕手。中学時代はバスケットボール選手。好きな選手はマイケル・ジョーダンだった。

 ◆ボクシング歴

 黒沢尻工高1年でボクシングを始める。同3年時の総体でモスキート級で優勝。拓大2年の国体ではライトフライ級で優勝した。05年3月プロデビュー。06年4月、東洋太平洋ミニマム級王座獲得(防衛1回)。09年6月、日本同級王座を王座決定戦で獲得(防衛3回)。

 ◆あご骨折

 07年6月、プロ7戦目で当時のWBC同級王者イーグル京和に挑戦もあごを2カ所骨折して判定負け。全治6カ月と診断され、手術を受け、1カ月間入院。

 ◆家族

 彩夫人(27)と長男圭太郎くん(6)長女志のぶちゃん(11カ月)。