サッカー元日本代表でJFL(日本フットボールリーグ)松本山雅DF松田直樹さんが4日、長野県松本市内の病院で心筋梗塞のため死去した。34歳だった。2日の練習中に急性心筋梗塞による心肺停止で倒れ、集中治療室(ICU)に運び込まれていた。容体は回復せず、家族に見守られながら息を引き取った。この日までJ1横浜時代の同僚や親交深かった全国のJリーガーたちが見舞いに駆けつけたが、その願いは届かなかった。日本代表として02年日韓W杯でベスト16入りに貢献。アグレッシブなプレーでファンを魅了したスター選手が、静かに逝った。葬儀・告別式は未定。

 奇跡は起きなかった。緊急入院してから3日目。松田さんは松本市内の病院で母の正恵さん、姉の真紀さんら家族に見守られながら、静かに息を引き取った。「オレにはサッカーしかない。40歳を超えても現役でいたい」。志半ばで訪れた突然の悲劇。その死はあまりにも若すぎた。

 脈は前日から弱くなっていた。十分な血圧を維持できず、心拍動音は微弱になっていった。そして昼下がりの午後1時6分。わずかながら動いていた鼓動が止まった。

 2日に練習グラウンドで倒れた。救急搬送された時は、すでに心肺停止状態。高度救命救急センター長の岡元医師はこの日の会見で「生命維持装置でもう1度立ち上がってほしいと、人工心肺装置、血液製剤や血圧を上げる薬を使ったが…。治療の効果が出なかった」と話した。

 入院後は意識がないにもかかわらず、広い交友関係を表すように約50人もの見舞客が訪れた。4日も、横浜から中村俊輔(33)を筆頭に、選手や関係者が弔問に訪れた。10人ほどしか入れない遺体安置所で、入れ代わり立ち代わり、別れを告げた。

 さみしいはずの別れも、いつもの笑顔だった。中村は松田さんと対面する前、「笑顔なんですよ」と家族から聞いていた。松本山雅のユニホームに身を包み、愛用のスパイクを履き、横たわっていた。チームメートと作った東日本大震災復興支援Tシャツや、母校の前橋育英高のユニホームなど、たくさんの愛に囲まれていた。「部屋に入ったら、本当に笑っていた。今にも起きて、サッカーしそうな感じ」。部屋に入った全員が、その安らかな笑顔に涙した。

 最後まで粘り強く生きた。家族はクラブを通じ「直樹は本当によくがんばった。横浜で16年間、その後松本山雅で8カ月。大切な仲間と大好きなサッカーに囲まれて直樹は幸せでした」と、関係者やサポーターに感謝の言葉を口にした。

 華のある選手だった。ルーキーイヤーの95年、開幕戦でいきなり先発。96年アトランタ五輪、00年シドニー五輪と、2大会連続出場を果たした。W杯日韓大会では、フィリップ・トルシエ監督(56)が用いた守備戦術「フラット3」の右サイドとして活躍。

 横浜では「ミスターマリノス」「闘将」の異名もとった。昨年末、横浜からの戦力外通告。「生涯マリノス」を公言し、誰よりもクラブを愛してきた自負があったが、松本山雅を新天地に選んだ。「Jリーグに昇格させるのがオレの役目」と誓った。シーズン中盤に入り、まさにこれからという時期に突然襲ってきた病魔。無念さ悔しさを言葉にすることはできなかったが、松田さんがサッカーに注いできた情熱は、必ず継承されていくはずだ。【松田秀彦、保坂恭子】