仕事中に初めて涙した。涙の意味を考える前に、自然と流れていた。

 昨年10月20日に53歳で亡くなったラグビー元日本代表監督平尾誠二さんをしのぶ「感謝の集い」。2月10日、神戸市内のホテルに800人もの関係者が集った。

 胆管細胞がんとの闘病生活を支えたノーベル医学生理学賞受賞者の山中伸弥氏(54)は、遺影に向かい「君のことを治せなくて…。本当にごめんなさい」と頭を下げた。平尾さんの京都・伏見工時代の恩師山口良治氏(74)は「親より早く逝くな。そんな大事なことを教えてやれなかった、私のミスです」。会場内はすすり泣きであふれた。


平尾誠二氏の遺影に語りかける山中伸弥京大iPS細胞研究所所長
平尾誠二氏の遺影に語りかける山中伸弥京大iPS細胞研究所所長

■格闘技と球技をミックス

 正直に明かすと、平尾さんのすごさを最近まで深く理解していなかった。私は06年、兵庫・尼崎市内の高校入学と同時にラグビーを始めた。大会では度々、神戸製鋼の練習場(神戸市・東灘区)を使用し、試合もよく見に行った。それでも当時の平尾さんはゼネラルマネジャー(GM)や総監督といった立場。現役時代はもちろん知らず、大人から聞く話で「すごい人なんだな~」と認識している程度だった。

 そのため、平尾さんが育った同志社大や伏見工(現伏見工・京都工学院)の現役選手から聞こえてくる「亡くなってから、すごさをあらためて知りました」の声に共感できた。先輩記者の原稿や、テレビの追悼番組などを見て、初めて知ったことは山ほどあった。「平尾さんは(現役の)あの当時から、10年先のことをやっていた」「今の日本ラグビーは平尾さんが何十年も前に描いた図になっている」…。そんな文言の意味をきちんと理解しなければ、同年代や下の世代へ、平尾さんの偉大さを伝える記事は書けないと思った。

 関係者のみなさんを取材する中で、印象的な言葉がたくさんあった。ラグビーの技術的な面では、日本代表や神戸製鋼で一緒にプレーした元木由記雄氏(45)の言葉が印象深い。

 「12番(平尾さんが活躍した左CTB)を面白くしたのは平尾さん。それまで日本のラグビーは『ここによこせ!』と走ってくる選手に、投げる方がパスしていた。それを平尾さんが『空いているところに放るから捕れよ』という具合にスペースを使い始めた。格闘技と、球技をミックスさせたのが、あの当時の神戸製鋼やと思うな」

 「スペースを探して、攻めなさい」。私が楕円(だえん)球を追った無名公立高校でも、そう習った。現在のラグビーにおける、基本的な考えだ。そのスタート地点を知った。


平尾誠二氏の「感謝の集い」で展示された手帳
平尾誠二氏の「感謝の集い」で展示された手帳

■内向きのラグビー界を変革

 「チーム作り」の観点では、同志社大、神戸製鋼で平尾さんの兄貴分だった大八木淳史氏(55)が分かりやすく説明してくれた。第1回W杯翌年の88年度。平尾新主将、大八木新副将のコンビはジャージーの左胸に「スティーラーズ」のロゴを刺しゅうした。当時アマチュアだったラグビー界の感覚は「ラグビーと仕事だけをやっていればいい」。反発も多かったが、企業名に愛称が付くのは現在の常識だ。地域住民を招いてのラグビーカーニバルも、当時の神戸製鋼がスタートだった。昨年7月、実際に足を運んだ「神戸製鋼ラグビーフェスティバル」では、老若男女のファンが選手との交流を一日中楽しんでいた。内向きだったラグビー界を変え、チームと地域を結んだ価値を、大八木氏の話で実感した。


日本選手権で大東大を相手に、華麗なステップでパスを出す神戸製鋼SO平尾誠二(写真は1995年1月15日)
日本選手権で大東大を相手に、華麗なステップでパスを出す神戸製鋼SO平尾誠二(写真は1995年1月15日)

■「皆で立ち上がりましょう」

 日本選手権7連覇直後の95年1月17日には、阪神大震災が発生。震災から20年後の15年1月。平尾さんのインタビューを掲載した日刊スポーツ紙面には、こうある。

   ◇   ◇

 震災で失われた8連覇。そんな周囲の同情を平尾氏は拒否した。「震災のせいにするな。負けは負け。今、それを認めないと100年たっても勝てるか」。被災者でもある平尾氏は地元ラジオで「皆で立ち上がりましょう。頼っていたらいつまでも立てませんよ」とも呼びかけた。「多くの支援をいただいて、でも何か自分たちの足で立つことを忘れているんじゃないかと」。

   ◇   ◇

 固定概念にとらわれない平尾さんは、世の中が混乱する状況でも、自らの言葉を使って人を引っ張る力があった。その裏には説得力を生む行動やプレーがある。大八木氏は言った。「平尾の死で、自分が育てられたラグビーに対して、もっとやるべきことがあるんじゃないかと気付かされた」。私たち若い世代も、平尾さんに歴史を振り返る時間をもらった。そこでの気付きを今後への発展につなげることが、一番の供養だと思う。【松本航】

 ◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。兵庫・武庫荘総合高でラグビーを始め、大体大を経て、13年10月に大阪本社へ入社。プロ野球阪神担当となり、15年11月から西日本の五輪競技を中心に担当。