ラグビー日本代表で主将と監督を務め、16年に胆管細胞がんで他界した平尾誠二さん(享年53)の三回忌を10月20日に迎えました。ウェブ限定で生き様を振り返る「平尾誠二の遺言」。最終回は京都・伏見工の同学年で、80年度に全国制覇した高崎利明(56=京都工学院副校長)に伝えた言葉です。

 

電話口の先で親友が重たい口を開いた。いつもの明るいトーンとは違ったその決意を、高崎は静かに受け止めた。

「家族のために生きる」-。

日本代表がW杯で南アフリカ相手に歴史的勝利を挙げ、列島がその余韻に浸っていた15年10月。80年度に伏見工のSHとして花園の頂点まで駆け上がった高崎は、SOとしてコンビを組んだ平尾を問いただした。数週間前にメールを入れた際には、核心を避けた返事が送られていた。

「ちゃんと言えよ!」

そう諭すと、平尾からようやく胆管細胞がんと向き合っていること、家族のために生きたいという思いを聞いた。「他の人に言えば(世間に)広がって苦しい時間になるし、家族との時間も取れなくなる」と考えた高崎は、1年後の10月20日まで電話の内容を口外することはなかった。

当時52歳の平尾はそこまでの人生を、ラグビーにささげてきた。限られた人にしかできない経験が全て吸い寄せられたような、濃密な52年間だった。

77年10月、京都・陶化中3年の司令塔は、当時伏見工を率いていた山口良治の目に留まり「伏見で日本一を目指そう。必ずや、私が日本代表に育てあげる」と口説かれた。そこからの歩みには停止線がなく、どこか生き急ぐように輝かしい経歴を刻んでいった。

伏見工入学前の3月から1軍のメンバー入りを果たし、3年時にドラマ「スクール☆ウォーズ」のモデルにもなった衝撃的な全国制覇を達成。泥まみれとなり3年間の苦楽を共にした仲だが、その全身から放たれるオーラを高崎も認める。

「努力して作ったものじゃない。何万人の中から選ばれる、アイドルのようなんですよね」

卒業後に進んだ同志社大では、CTBとして史上初の3連覇。在学中に史上最年少となる19歳4カ月で日本代表入りを果たし、満員の国立競技場では松尾雄治を擁した「北の鉄人」新日鉄釜石に立ち向かった。

その圧倒的な強さに屈したかと思えば、86年に入社した神戸製鋼で主将を歴任。88年度からは大学時代に敗れた新日鉄釜石に並ぶ、日本選手権7連覇を成し遂げた。

日本代表としても87、91、95年とW杯に3大会連続出場。97年2月には史上最年少の34歳で日本代表監督に就任したことで、現役生活に終止符が打たれた。その若さでありながら、日本協会会長の金野滋が「年齢は関係ない。選手のリスペクトを得ているし、日本で一番、ラグビーを知っている」と評すほどだった。

ラグビー界のみならず、スポーツ界の第一線をノンストップで突き進む友。京都で教壇に立つ高崎は、顔を合わせるたびに、笑いながら伝えたという。

「いつまでもカッコいいから腹立つわ。頭がはげるとか、歯が抜けるとか、何かなれや」

そのキラキラとした歩みの一方で、スターは素顔を明かすことを嫌った。現役時代から新幹線の移動では、必ず窓のブラインドを下げる。神戸の繁華街「三宮」でどれだけ酒に酔っても、店から1歩外に出ると必ず鼻の下に手を当てて、口元を隠した。神戸製鋼でゼネラルマネジャー、総監督となってからも、タクシーを呼ぶ際は「平尾」ではなく、スタッフの名前を使用するように命じた。そのこだわりは、かたくなだった。

急ぎ足で進んだ52年。その歩みは15年秋、医師から胆管細胞がんについて聞いたことを境に変化した。余命3カ月という情報も耳に入り「いろんなことをやってきたから、もういいか」と口にしたが、慌ただしい生活を支えてくれた家族の顔を見て思い直した。

「家族のために生きる」-。

最後の1年だけは世間と距離を置き、愛する家族に時間をささげた。素顔を隠すことにこだわった男が、家族を引き連れて神戸の焼き鳥店へ食事に出かけたこともあったという。息を引き取る半年前の16年春には、電話で高崎に伝えた。

「ゴールデンウイークに、家族で初めて旅行をしようと思っとるんや」

いつもの調子で「その方がストレスになるんちゃうんか」と切り返した友と笑い合い、最後の最後まで懸命に生きた。葬儀も家族による密葬で行われた。

高崎が平尾と2人でよく通った焼き肉店が、京都市内にある。決まってラグビー談議で盛り上がり、気付けば日付が変わることもあった。平尾は神戸の自宅まで新幹線で帰ることができないと分かると、タクシーで帰路に就いた。人脈が多方面に広がる一方、本音で話をできる相手はそう多くなかった。

ラグビーに尽くした52年と、ありのままの自分でいた最後の1年。その生涯を近くで見てきた高崎は、訃報を聞いた16年10月20日にこう語っている。

「(病気を聞いた時に)いい思い出が消えた感じだった。今までよりいい思い出は、出てこない」

そう悲しみを表現した上で、言い切った。

「生徒には歴史を含めて、彼の功績を伝えていきたい。『君たちの先輩は、こういう風に生きてきたんだ』としっかり伝えていきたい。伏見工業、(学校統合で生まれた)京都工学院にとっても大きな柱を失って、すごく痛手。でも、現役の子たちと、新しい歴史をつくっていけるように、話をしたいと思っています」

平尾の三回忌となった18年10月20日は土曜日。15季ぶりのトップリーグ優勝を目指す神戸製鋼は、神戸の地でNECと戦う。京都では伏見工の伝統を受け継ぐ京都工学院が、3年ぶりの花園を目指して京都府予選の初戦を迎える。神戸製鋼関係者は言った。

「喪章をつけたりはしません。平尾さんがそういうのを好まないでしょう」

目に見える形でなくとも、生き様はそれぞれの胸に刻まれている。(敬称略)【松本航】

 

◆日刊スポーツでは、17年末に「伝説の伏見工」(6回)としてウェブ連載し、計340万アクセスを記録する大ヒット作になりました。10月5日には「伏見工業伝説」(文芸春秋)として書籍化され、2人の絆が描かれています。