佐藤輝が、長年、田淵が保持してきた球団の新人記録に並び、塗り替えようとしている。半世紀以上も抜かれることがなかったのは田淵のすごさだが、佐藤輝というポテンシャルの高い若い芽が出てきたことは喜ばしい限りだ。

田淵が新人で22本塁打を記録した1969年は、わたしの現役最終年で、コーチ兼任だった。スリムな体は柔らかく、足が速い“カモシカ”のようだった。ただ捕手には“ヒゲ辻”こと辻佳紀と、“ダンプ”といわれた辻恭彦の2人がいた。

監督だった後藤次男さんは、この経験豊富な両辻を起用したから、田淵の出場機会は限られた。だが、新人離れした美しい放物線を描いて飛距離の出る打球は天賦の才だったし、後半戦に入って田淵を使い続けることになったのだ。

田淵はまさに「天才型」で、典型的な長距離打者だった。阪神を背負って立つ選手になると思ったが、佐藤輝にも同じオーラを感じる。これまでの阪神には見当たらないスケールの大きな3拍子そろったプレーヤーに育ってくれないだろうか。

DeNA戦の2本のホームランを含めて、後半戦の佐藤輝をみていると、ストライクゾーンを会得しつつある。ここにきてフルスイングの仕方が、ややコンパクトになった。同じフルスイングでもむちゃ振りでなく、ボールを見極めようとして振りにいっているのは成長の証しとみている。

田淵が王貞治の14年連続の本塁打王を阻止し、初めてタイトルを獲得したのは、わたしが阪神監督に就いた1年目の1975年のシーズンだ。“カモシカ”はいつの間にか貫禄のある体格になっていたが、あの王を抜いたのは立派だった。

本人の努力もあっただろう。しかし、あの年は、巨人打撃コーチだった山内一弘さんを阪神に引っ張るため、巨人監督の川上哲治さんに銀座スエヒロで頭を下げた。田淵のアーチストぶりには、“教え魔”といわれた指導者の手腕も隠されている。

佐藤輝のプロ野球人生は幕が開いたばかりだ。まだまだ先は長い。これぐらいでテングにはならないだろう。ぜひとも阪神の歴史を変えて、後世に名を残すような大打者になって羽ばたくことを願ってやまない。(日刊スポーツ客員評論家)