平成元年のシーズン途中にひっそり来日した外国人選手が、日本球界に強烈なインパクトを残した。オレステス・デストラーデ(56)。90、91年に本塁打と打点の2冠を獲得。秋山幸二、清原和博と「AKD砲」を形成し、西武黄金期の中核を担った。カリブの怪人と呼ばれファンに愛され、華々しく時代の扉を開けた助っ人に去来するモノは。

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デストラーデが、今でも宝物として大切に思っているのが「AKD砲」だ。90年代初期、西武の黄金時代に打線を引っ張り、最強と呼ばれた「3番秋山、4番清原、5番デストラーデ」のクリーンアップ。「僕にとって特別だった。彼らを愛していたね。AKDほどつながりのいい3、4、5番を見たことがなかった」。

思いの強さゆえ、再婚した現夫人との間に生まれた息子にアルマンド・カイという名前をつけた。デストラーデはいつも、今年8月で14歳となったその息子を「AKD」とイニシャルで呼ぶ。

AKD砲は、デストラーデが西武を退団する92年まで続いた。結成2年目の90年には、3人とも35本塁打以上、2桁盗塁をマーク。90年から3年連続で日本一に輝いた。晩秋、ヤクルトとのハイレベルな攻防は野球好きを魅了した。

「アキは速い。オールラウンドのすごい選手。私は両方(スイッチヒッターで)パワーがある。キヨは、打率は3人で一番。頭のいい打者だった。ライト前にも打つし、パワーもあるし、打点も稼ぐ。ヤクルトとの日本シリーズ(92年)では、野村監督も3人を抑えるのがかなり大変だったと思うよ。誰かが打つから」

チームには若さに任せた勢いがあった。89年当時、清原が22歳、秋山とデストラーデは27歳。脂が乗っていた。編成の巧みさが強さの根底にあったと指摘した。

「西武が強かったのは、素晴らしい選手がそろっていたから。しかもみんな同じ年代だった。伊東、秋山、渡辺久、公康、郭…多いね。キヨは22歳と若かったが、いい選手。年上は辻、石毛キャプテンだけだった。雰囲気が良かっただけでなく、年齢も良かった。野球選手は28歳がパーフェクトの年齢だと思うから」

AKDの3人はプライベートでも行動をともにすることもあり、相性も良かった。「僕らは友だちだったよ。(同年齢だった)アキと僕は、より関係が深かった。ロッカーが隣同士だったから、自然とそうなったよ。アキからは人間性、集中力、気持ち、そういう面を学んだ。僕はとても感情的で、盛り上げ役だった。僕らはお互いの良いところをたたえ合っていたね」。デストラーデにとって、AKDは人生でかけがえのないものだった。だからこそ…どうしても伝えたい。清原和博へ-。(敬称略=つづく)【水次祥子、古川真弥】