<高校野球北北海道大会:帯広大谷4-3旭川南>◇19日◇決勝◇旭川スタルヒン

 全国一番乗りだ!

 帯広大谷が逆転で旭川南を破り、創部17年目で春夏通じ初の甲子園切符を手にした。0-3の4回裏に8番工藤聖太遊撃手(3年)の走者一掃の二塁打で追いつくと、8回裏1死満塁から7番角雄平三塁手(3年)の押し出し死球で決勝点。今秋ドラフト候補の杉浦稔大投手(国学院大4年)を擁した4年前は準優勝に終わったが、弟の大斗二塁手(3年)が主将としてチームを束ね、2度目の決勝で北北海道107校の頂点に立った。

 9回表2死二塁。旭川南最後の打者を遊ゴロに打ち取ると、佐藤和-権藤のバッテリーが走り寄ってがっちり抱き合った。一目散に集まるナイン。もみくちゃになりながら、人さし指を突き上げた。甲子園だ。7月19日午後3時9分、帯広大谷野球部の歴史のページが1枚刻まれた。日差しが照りつける中、汗と涙と笑顔で旭川スタルヒンのマウンド上が輝いた。

 決勝のホームを踏んだのは、主将の杉浦だった。3-3の8回裏、先頭で中越え二塁打を放って出塁。その後、安打、四球と続き1死満塁のチャンスを迎えた。準決勝の旭川龍谷戦で逆転2点適時打を放ち、今大会チーム一の通算13打点の角が押し出し死球。三塁から生還した杉浦は、ガッツポーズしながらホームベースを踏み、手でもポンとタッチした。

 再びこの舞台に戻ってくるのに、4年の歳月を要した。09年は、北大会初勝利からの快進撃で決勝進出。旭川大高に1-5で敗れた。当時、中学2年だった杉浦は、エースとしてマウンドに立っていた兄の稔大をスタンドで応援していた。「兄が負けた姿を見て、悔しかった」。あと1勝で兄が果たせなかった甲子園の夢をかなえた。

 10年秋の全道大会に出場して以来、チームは3季通じて十勝地区でくすぶっていた。今の選手にとっては、入学してから初の道大会という大舞台。1年時から試合に出場していた角は「ずっと支部で負けていて、自分たちの代になったら行けると思っていたけど、最後の夏までかかってしまった」。ラストチャンスへの思いが、大輪の花を咲かせた。

 勝てない時期が続くと、学校近隣の住民から苦情が入ることもあった。グラウンドは帯広市郊外の住宅地にあり「掛け声がうるさい」「夜遅くまで練習するな」という声がナインの耳にも届いた。「勝たなきゃ」というプレッシャーが、選手の足かせとなった。

 止まっていた腕時計が動きだしたように、チームにパワーがよみがえった。4年前の決勝で敗れた当時の佐藤孝広主将から、代々受け継がれている腕時計がある。今年3月、杉浦が前チームの小林隼太副主将から受け取った時には、電池が切れて動かなかった。「また動かせば、あの時(4年前)に戻れるんじゃないか」。そんな思いから、今夏の地区予選前に電池を入れた。腕時計に勝利を願うくらい、勝ちたかった。それから負けなし。杉浦は「これのおかげかもしれません」と試合後、腕時計を大事そうに持っていた。

 高校球児、憧れの夢舞台へ。ナインは口々に「4年前のリベンジができてうれしい」と口にした。道大会にも出られなかったチームが、まずは4年前の雪辱を果たした。次は聖地・甲子園での全力プレーで新たな歴史を刻む。【保坂果那】

 ◆帯広大谷

 1923年(大12)帯広大谷女学校として創立した私立校。48年に現校名となり、97年に男女共学になった。文理、普通の2コースで生徒数727人(女子は435人)。野球部は97年創部で、09年夏の北北海道大会準優勝が最高だった。部員数は33人。所在地は北海道帯広市西19条南4丁目35の1。大西正宏校長。◆Vへの足跡◆◇十勝地区大会2回戦13-3鹿追代表決定戦8-1音更◇北北海道大会1回戦8-1釧路明輝準々決勝15-4滝川西準決勝4-3旭川龍谷決勝4-3旭川南