<高校野球埼玉大会:県川口4-1浦和学院>◇15日◇3回戦◇大宮公園

 優勝候補を破ったにもかかわらず、県川口は冷静だった。「秘密兵器」だった背番号3の2年生左腕・中島史也は最後の打者を右飛に打ち取ると、ガッツポーズもなく、仲間とグラブタッチするだけで整列に向かった。初戦は登板のなかった隠し玉が、8安打されながら1失点に抑えた。「まだ実感がわきません。後ろにエースがいるので飛ばしていきました」とメガネの奥の瞳を輝かせた。

 小島対策は万全だった。浦和学院の初戦、狭山経済戦のビデオを見て下した結論は「小島は球が上ずっている。調子は良くない」というものだった。右打者の内角への直球を得意としてる小島だが、左打者にすれば外への球になるので恐怖感は少ない。県川口は初戦の独協埼玉戦でも左を6人起用したが、言ってみればジグザグ打線だった。だが、小島には1番から4番と続け、6、7番にも並べた。それが初回の攻略につながった。

 大宮東から国際武道大と、野球の名門で学んだ鈴木将史監督(28)が言う。「左対左は、投手が有利とは限りません。コントロールの良い小島君なので、ボール球を振るなという指示を出した。しかも、ほとんど直球だったので絞りやすかった」と、してやったり。

 2人の左打者が補足する。初回の三塁への2点内野安打を放った斉木亮捕手(2年)も「ラインぎりぎりに立って、外のボールだけを狙っていました」と説明した。また、4回の貴重な追加点となる左越え2点三塁打を放った永井甫内野手(3年)も「外の直球一本に絞っていた」と偶然ではないことを強調した。鈴木監督の「いつかは浦和学院さんと当たることを想定してやってきましたから」という言葉がすべてを表していた。【浅見晶久】

 ◆県川口

 1941年(昭16)川口市立川口中学校として開校。51年2月に埼玉県に移管され現在の校名に。生徒数は1013人(うち女子は503人)。野球部は43年創部で部員72人。所在地は川口市新井宿諏訪山963。田中則雄校長。