プロ野球ロッテの投手として活躍し、11日午前に自宅火災により72歳で亡くなった村田兆治さんの弟光英さんが12日、兄への思いを明かした。

遺体と対面し、「別段いつもと変わらず、優しい兄貴の顔をしていました。顔を見た時は、残念でしかなかった。この若さで失って…」と悲痛な胸中を懸命に言葉にした。

2人の上に姉と兄がいる4人兄弟だった。「兄貴にとっては私が唯一の弟で、けんかをしたり、言うことを聞かないこともありましたけれど、素直な兄貴でした。兄貴にいろいろなことを言ってあげられるのも私しかいなかった」と密接な兄弟関係を築いてきたと言う。

兆治さんは野球界、光英さんは会社経営など別々の道を歩んできたが、お互い良き相談相手でもあった。「兄貴はとても頑固で、こうと決めたらやりぬくタイプ。一本気でね。まっすぐな人間でウソをつけない男」と生きざまを表現。「私なんかも人生で波乱もありましたけれど、激励され、応援してもらい、今がある。兄貴に習ってやってきましたし、兄貴を目指して頑張ってきた」と包容力にあふれた大きな背中を追い続けてきた。

今年9月下旬に羽田空港で女性検査員の肩を押したとする暴行容疑で逮捕、釈放された際にも「私が身元引受人になったんです」。憔悴(しょうすい)した兄に寄り添い、兄を力づけたのも光英さんだった。最後に2人で会って話をしたのは先月中旬。「兄貴は心臓も悪かったので『これからいろいろとどうしていこうか』なんて相談もしていた。病院の書類をつくったりだとか」。

兆治さんが提唱者となり大会名誉会長として発起した「全国離島交流中学生野球大会」(通称・離島甲子園)は2008年から開催され、今年8月には新潟県佐渡市で第13回大会を開催した。高齢化や過疎化が進む全国の離島地域を対象に、野球を通して島と島の交流を図って青少年育成や地域振興に寄与。光英さんが代表を務めていた企業が事務局として運営に携わってきたが、「兄貴は損得抜きでやってきた。体の続く限り続けていくと言っていまし、国をある程度動かしたわけですから。離島甲子園は続けていきたい」と継続の意向を示した。

兆治さんも8月22日の開会式で「諦めない、夢を持ってという野球以外でもつながっていく」と大会の意義を中学生らに熱く語っていた。野球に限らず、サラリーマンとしての営業職、料理好きの夢を果たした調理師、東大受験に失敗しても次の目標をつかんだ「離島甲子園卒業生」の実例も伝えた。「見る、聞く、考えて行動するということが、これからの時代に皆さまがヒーロー、主役になるために一番大切なことです。常に成功を確信して、自分を信じて、いつまでも頑張って。離島甲子園の経験、体験、志がきっと役に立つ。これを念頭において切り開いてください」と壇上から優しく呼びかけていた。

村田さんは「マサカリ投法」と称された独特のダイナミックな投球フォームから剛速球とフォークで、プロ通算215勝を挙げた。40歳で現役を引退。指導者や解説者を務めてきたが、近年は野球教室など競技普及を中心に活動。11日に東京都世田谷区の自宅で火災が発生し、煙を吸ったことによる一酸化炭素中毒で亡くなったとみられる。

◆離島甲子園 全国の離島中学生が一堂に会してトーナメントを行う軟式野球の大会。村田兆治氏が引退後に「全国の離島の子どもたちに夢と希望、勇気を持ってもらいたい」と野球教室を始めたのがきっかけで、08年に第1回大会を開催。毎年夏に全国の離島を巡って行われ、今年は3年ぶりに開催。23チームが新潟・佐渡で試合を行った。